戦国武将紹介 明智光秀
彼はあの日、本能寺にはいなかった
本能寺の変にて、あの織田信長を葬った戦国武将といえば?
皆様ご存知!
惟任日向守(これとう ひゅうがのかみ)!!
って誰ぇ〜〜Σ(゚д゚lll)
惟任さんってどちら様ぁ?( ;´Д`)
って感じですね😌
はい、明智光秀(あけちみつひで)さんのことです。
この「惟任」は姓で、「日向守」は官位となります。戦国武将さんはこうゆう官職で呼ばれることがあります。
そして、
「光秀」の部分は諱(いみな)と言いまして、古くは「名前はその人の人格や魂を支配する力を持つ」と信じられていたため、他人に悪用されたり支配されたりするのを防ぐ目的で、むやみに口に出すことが強く忌み嫌われました。
忌み名とも書きます。
特に目下の者が目上の者を諱で呼ぶなんてことは失礼にあたります。
信長さんの家臣が「信長様ぁ!」なんて呼んでいるのはフィクション。
じゃぁ普段はどう呼んでいたのか?
それは通称(つうしょう)にて。
明智光秀であれば、十兵衛(じゅうべえ)。
知らなかった〜😛って方もおられると思いますが、まぁこれは余談。
今回は、この明智光秀さんを戦国に興味ない方にも興味を持っていただけるよう、簡単解説させていただきます。
明智光秀とは?
織田信長の重臣として軍事・政治・外交など幅広い分野で活躍し、1582年に起きた「本能寺の変」を起こした人物として知られています。
光秀の前半生には不明な点が多く、生年や出身、若い頃の経歴には諸説あります。一方、織田信長に仕えて以降の足跡は多くの史料に残されており、戦国時代を代表する武将の一人として現在も研究が続けられています。
光秀は美濃国(現在の岐阜県)出身とする説が有力ですが、確定しておりません。
生年も1520年代と考えられているものの、正確な年は確認されていません。
若い頃については史料が少なく、各地を転々としたという説や、将軍・足利義昭(あしかがよしあき)に仕えていたことなどが知られていますが、分かっていない部分が多く残されています。
優秀!超優秀!!ゆえに大活躍
織田信長に仕えた光秀は、軍事だけでなく政治や外交まで幅広い任務を任され、織田政権を支える中心人物の一人となりました。
丹波攻略を成功させる
1575年頃から光秀は丹波国(現在の京都府中部など)の攻略を命じられました。
丹波には有力な国衆(くにしゅう)、つまり地元の武士たちが多く、攻略は容易ではありませんでした。
それでも光秀は各地の城を攻略しながら勢力を広げ、1579年頃までに丹波をほぼ平定。この功績によって広大な領地を与えられ、織田家の重臣としての地位を確立します。
福知山城を築き、領地を統治
丹波平定後、光秀は福知山城を築き、丹波の統治を進めました。
城下町の整備や治水工事などにも取り組んだと伝えられ、現在の福知山市では地域の発展に貢献した武将として知られています。
彼は統治者としても手腕を発揮したんですね。
京都周辺の治安維持を担当
光秀は京都周辺の警備や治安維持も担当しておりました。
当時の京都は政治・文化の中心地であり、信長にとって極めて重要な地域でした。
その京都を任されていたことは、光秀が織田家の中でも重要な立場にあったことを示しています。
日本国内なのに会話が通じない?
光秀は教養が高く、文書作成や交渉能力にも優れていたと考えられています。
そのため、信長に代わって朝廷や公家、将軍家との交渉や連絡役を務めることがありました。
武力だけでなく政治的な調整も天下統一には欠かせず、その重要な役目を任されていたことからも、信長の信頼を得ていたことが分かります。
……とだけ書くと、
「ふ〜〜ん、光秀さんは戦だけの人じゃなかったのね」
ぐらいの印象かも知れません😌
なのでもう少しだけ、ここを深掘ってみましょう。
戦国系の作品、映画でもマンガでも何でもいいですが、ぶっちゃけ観てくれる人・読んでくれる人の興味をひけないと作品として評価されません。
だからあえてここを正確に描く作者さんは少ない(少なくとも私は見たことない)と思います。
戦国時代は現在のように全国共通の標準語が存在せず、地域ごとに言葉や文化の違いが大きかった時代です。
つまり!
日常会話ていどならいざ知らず、他国の要人と複雑で重要な会話をするには、場合によっては難しかった💦💦💦
映画とか観てて、登場人物たちの会話が通じなくて困惑するシーンとか見せられても困りますよね😅
A「えぇ〜っと……いま、なんと?」
B「ドゥンガ、カサクヤ、インドゥムゥ」
A「……失礼ながら、今一度」
B「ルストウィラダ、ハンバハンバムーア」
A「……あぁ〜……えぇ〜……」
B「ランダバウーラダン、ドンジュカラ」
A「…………。」
みたいな🫠
まぁ、これは超大げさに、あり得ないぐらいの書き方しましたが(本当にこれは大げさに書きました😝ゴメンナサイ🥳)、
我々が目にする戦国作品はこのあたり略されていて、普通に会話できて当たり前という前提で作られているでしょう。
で、です。その上で。
光秀は教養が高く、和歌や漢文、文書作成にも優れていたと考えられており、
さらに、京都の公家社会や将軍家とのつながりが深く、京都で用いられていた言葉遣いや礼儀作法にも精通していました。
特に朝廷や公家とのやり取りでは、京都独特の言葉遣いや格式ある作法、正式な文書の知識が求められる。
そのため信長は、こうした知識を持つ光秀を、朝廷や公家、そして足利義昭(あしかがよしあき)ら将軍家との交渉や連絡役としてたびたび起用したのだと思われます。
戦を得意としていた武将さんはたくさんおられますが、政治や外交まで任せられる人物は限られていました。
光秀は軍事だけでなく、こうした高度な外交能力も兼ね備えていたことから、信長の側近として重要な役割を担っていたんですね〜🥳
光秀さんなくして信長さんの躍進はなかったかも知れませんし、逆もまたしかりだと思います。
うむ。
良きパートナーであります。
……能力的な面だけを見ると。
そして、あの事件が起こります。
本能寺の変
1582年6月2日(旧暦)、京都の本能寺に滞在していた織田信長を、光秀の軍勢が襲撃しました。
信長は本能寺で自害し、この出来事は「本能寺の変」と呼ばれています。
これまで首謀者である光秀は現場で指揮していたというイメージが広く定着しておりました。小説やドラマなどでよく描かれるシーンですね。
しかしながら、これは史料に残されていたわけではないのです。つまり、「おそらくは現場にいただろう」という憶測のもと描かれたシーンということ。
戦国作品にはよくあることです。
が!実際にそうであったかは別。
近年では現場である本能寺ではなく、伏見方面にいたのでは?という説をよく耳にします。
何はともあれ、主君・織田信長は果て、時代は大きな転換点を迎えます。
光秀は京都一帯を掌握し、新たな政権の樹立を目指しました。
山崎の戦い
本能寺の変の後、光秀は新たな政権を築くため、周辺の大名や織田家の有力武将に協力を求めました。
特に、近江の細川藤孝(ほそかわふじたか)・細川忠興(ただおき)父子は光秀と縁戚関係にあり、有力な味方として期待されていました。
しかし、父子は光秀への加勢を断り、織田家への弔意を示して出家する道を選びます。
また、筒井氏など周辺勢力にも働きかけたと考えられていますが、本能寺の変から次の戦いである山崎の戦いまでの期間があまりにも短く、十分な支持を集めることはできませんでした。
一方、中国地方で毛利輝元と対陣していた羽柴秀吉(はしばひでよし。のちの豊臣秀吉)は、毛利氏と講和を結ぶと、ただちに畿内へ向けて軍を引き返します。この素早い進軍は「中国大返し」として知られています。
その道中、秀吉は「信長公はご無事である」と各地へ伝えながら進軍したとする史料があります。これにより織田家の諸将の動揺や離反を抑える狙いがあったと考えられていますが、その効果については研究者の間でも評価が分かれています。
光秀も京都を掌握し、味方集めを進めていましたが、十分な体制を整える前に秀吉軍が畿内へ到着しました。
1582年6月13日(旧暦)、両軍は京都と大坂(当時は大阪ではなく大坂)の境にある山崎で激突します。
秀吉軍は天王山などの要地を押さえて戦いを優位に進め、最終的に光秀軍は総崩れとなりました。
光秀は坂本城を目指して敗走しますが、その途中で落ち武者狩りに遭い、命を落としたと伝えられています。
彼の生年は確定していないため、享年も正確には分かっていません。有力な1528年生説を採用するのであれば、54歳(数え年55歳)で亡くなったということになります。
本能寺の変から山崎の戦いまでは、わずか約11日でした。
現在では、光秀の敗因を単純に「判断ミス」と断定することはできず、秀吉の異例ともいえる速さでの講和・進軍・諸将への働きかけが勝敗を左右したと考えられています。
本能寺の変の真相とは?
本能寺の変がなぜ起きたのかは、現在も結論が出ていません。
光秀自身が動機を記した確実な一次史料は確認されておらず、現在もさまざまな説が研究されています。
代表的なものには、光秀単独説、朝廷黒幕説、足利義昭黒幕説、羽柴秀吉黒幕説、徳川家康黒幕説などがあります。
そのなかで近年、特に注目を集めたのが、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を中心に据えた説です。
この説の背景には、光秀が長宗我部氏との外交を担当していたことがあります。当初、信長は元親との友好関係を維持する方針をとっており、光秀もその交渉役を務めていました。
しかし、その後、信長は四国政策を大きく転換し、元親に対して領土の大幅な返還を求める方針へ変更したと考えられています。さらに、四国征伐のため大軍の派遣も決定しました。
この政策転換によって最も追い詰められたのが元親であり、同時に外交を担っていた光秀の立場も大きく揺らいだとするのが、この説の出発点です。
この説では、元親が光秀に信長討伐を働きかけた、あるいは光秀と元親の利害が一致したことで本能寺の変につながった可能性を指摘しています。
一方で、この説を裏付ける決定的な一次史料は確認されていません。現在知られている史料からは、光秀と元親が本能寺の変を共同で計画したことを直接示す証拠は見つかっていません。
そのため、長宗我部元親黒幕説は、近年の研究で注目された有力な仮説の一つではありますが、史実として確定した説ではありません。
現在の研究で確実に言えるのは、本能寺の変の動機や真相は依然として未解明であり、今も新たな史料や研究によって議論が続けられているということです。
戦国時代に限らず、歴史を深掘っていくとこうゆうことによく出くわします。
なので私は、
「こうゆう史料があります」
「こうゆう説があります」
「私はこう考えております」
でも!
「実際にはわかりませんよ」
というスタンスで歴史と向き合っております。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
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https://jaminism.hatenablog.com/entry/2024/08/15/143713
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いつもありがとうございます😌
重ね重ね、お礼申し上げます✨
Bさんが話してたのはモスラの歌の歌詞ダヨ🤩
モスラの歌の歌詞はインドネシア語なんダヨ🥳
知ってた?😜

















昨日の豊臣兄弟で秀吉が尼崎まで戻ってきて、いよいよ次回…というところで終わりました。
実際のところはわかりませんが、ドラマを見てると信長に対する光秀の苦悩っぷりが伝わってきました。
ドラマのように信澄黒幕説はさすがにないのでは…と思いつつ、真相がわからないことで、エンタメとしては光秀はいい題材なんだろうなと思います笑。
光秀が信長を殺してなければ、その後どうなってたんだろう🤔 歴史って面白いですよね〜。
惟任さん
意外な能力があったのですね。
そして、本能寺の変の真実…気になりますね。
タイムマシンがほしい!
ジャミさん
素敵な、そして学べる文章をいつもありがとうございます🐽❤️