戦国武将紹介 豊臣秀吉
日ノ本一ノ出世人〜ひのもといちのしゅっせびと〜
天下人、太閤(たいこう)と聞けば、戦国ファンであればおそらくは思い浮かべるであろう人物。その名は
豊臣秀吉(とよとみひでよし)
以前の記事にて、織田信長がこの世を去ってからの秀吉さんについて簡単に書かせていただきました。
今回は秀吉さんを、もう少しだけご紹介させていただきます。
藤吉郎さんって知ってる?
皆さんは戦国作品を観ていて、
「なんだこの分かりにくい表現は🤨」
「ん?なんでそんな分かりにくいことになってんの?😑」
って思ったことありませんか?
例えば語り部のセリフなどで
「はしばひでよし、のちの、とよとみひでよしである!」
とか。
戦国武将さんは名前が複数あったりします。今回ご紹介します秀吉さんもそうです。
彼は幼い頃、日吉丸(ひよしまる)と呼ばれておりました。幼名(ようみょう)と言いまして、元服(げんぷく)するまでの名前です。
元服って何?って感じですが、成人式みたいなもので、だいたい12〜16歳ぐらいに行われます。
で、話を秀吉さんに戻しまして
彼は名前を、以下のように変えていきました。
↓ ↓ ↓ ↓
木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)
木下秀吉(きのしたひでよし)
羽柴秀吉(はしばひでよし)
という名前の変遷を辿りますが、
藤吉郎というのは通称(つうしょう)で、
秀吉というのは諱(いみな)というものに当たりますので、藤吉郎から秀吉に変わったというわけではなく、
木下藤吉郎秀吉
(きのしたとうきちろうひでよし)
と書いても間違いではなく、史料上でもこう表記されることがあります。
木下=名字
藤吉郎=通称 ➡︎ 普段の呼び名みたいなもの
秀吉=諱 ➡︎ 正式な文書や公式の場にて使用
そして、「豊臣」(とよとみ)
これは氏(うじ)に当たります。
なので、彼は1585年から豊臣を名乗りますが、これまた紛らわしいことに
羽柴から豊臣に変わったわけでもなく、
豊臣秀吉になってからも、羽柴秀吉でもありました。
紛らわしいわΣ(゚д゚lll)
って感じですが、さらにさらに
戦国武将さんは官職名でも呼ばれることがあり、
羽柴筑前守秀吉(はしばちくぜんのかみひでよし)とか呼ばれちゃったりします。
紛らわしいわΣ(゚д゚lll)の極みですね🥹
多才なチャレンジャー
彼は農民の生まれであったという説がある一方で、彼の父は足軽もしくは足軽身分に近い人物であったとする説もあります。
いづれにせよ、高貴な生まれではありませんでしたが、そこから天下人にまで登り詰めます。
最初に今川義元(いまがわよしもと)に仕えたという説はありますが、それを裏付ける同時代史料は確認されておらず、史実として断定できません。
一方、織田信長の家臣になっていたことは同時代史料にて確認できます。
藤吉郎(のちの豊臣秀吉)は信長のもと、ガンガン働きます。
⚫︎墨俣一夜城(墨俣築城)の普請を任され、短期間で前線拠点を整備したと伝えられています。
が……
「一夜で完成」というのは後世の脚色と考えられています😛
⚫︎美濃攻略では、現地の武将との交渉や調略を積極的に進め、実質的な戦闘以外での成果も挙げました🎭
⚫︎京都の町の管理や外交、軍事など、さまざまな仕事を任され、初めての役割にも積極的に挑戦💪
⚫︎中国方面軍の司令官に抜擢され、中国地方の有力大名との長期戦で大軍を率いました⚔️
⚫︎備中高松城攻めでは、大規模な堤防を築いて城を水で囲む「水攻め」を行い、力攻め以外での戦い方も展開🌊
こういった働きっぷりから歴史家からは
“主君の命令を待つだけでなく、自ら考えて判断し、交渉や築城などさまざまな方法で任務を成功へと導く有能な人物”
として評価されたりもします。
うむ、確かに凄い。そんなこんなで彼はどんどん出世していったわけですが……
本能寺の変
西暦1582年、主君・織田信長は、家臣・明智光秀(あけちみつひで)の謀反(むほん)、つまり裏切りにより自害に追い込まれてしまいます。
その報告を受けた秀吉は当時、毛利氏との対陣真っ只中。すぐに毛利と和睦し、とって返します。
世にいう、中国大返し。
当時としてはとても速い行軍スピードだっただけでなく、「信長様はまだ生きている」というニセの情報を流しながらの行軍でした。
もし本当に信長が生きていたら、光秀側に味方することは裏切り者の側につくこととなるため、それもあってか多くの者が秀吉に加勢しました。
まさか秀吉の軍勢がここまで迅速に、しかも大軍でやって来たことに光秀も対処しきれなかったのか、山崎の戦いにて秀吉の勝利となりました。
と、ここまではこれまでもよく語られてきました。が、北陸方面で上杉軍と戦っていた柴田勝家(しばたかついえ)も、本能寺での一報を聞くとものすごい勢いでとって返しました。
光秀との戦いに間に合いこそしませんでしたが、その行軍スピードは秀吉の中国大返しと同じく驚異的であったことも追記しておきます。
賤ヶ岳の戦い
主君の仇討ちを果たしたことにより、秀吉は織田家家臣団のなかで発言権を強めることとなります。
そして今後の織田家に関してどうしていくかの会議が開かれます。世にいう清須会議(きよすかいぎ)。この会議に参加した織田家家臣は
柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興
そして、羽柴秀吉
この会議を経て、秀吉は織田家をコントロールしやすいポジションを手に入れます。
ちなみにこの清須会議、「清洲会議」と表記しても間違いではありません。
会議が開かれた城の所在地は現在の清須市であり、市や観光協会も「清須会議」を用いていることからこちらが一般的となっております。
そして、秀吉がまるで織田家のトップのような状況となったことに不服な者たちもおりました。その筆頭(と言って良いのか分かりませんが)が、柴田勝家。反秀吉派の者たちも勝家の側につき、ついに戦にまで発展してしまいます。
世にいう、賤ヶ岳の戦い。この戦いに勝利した秀吉は、完全に織田家を乗っ取ることに成功しました。
秀吉 vs 家康!唯一の直接対決
織田家が秀吉にのっとられたことに危機感を覚えた人物がおりました。信長の次男(三男説もあり)・織田信雄(おだのぶかつ)です。
しかし信雄は単体では秀吉に対抗できる戦力がありません。そこで信雄は徳川家康を味方につけ、秀吉と対決。
世にいう、小牧・長久手の戦い
総合的な兵力は秀吉の方が上でしたが、なんと、長久手合戦において家康は羽柴軍を討ち破ります。
このことにより家康の野戦での強さが全国の大名に知れ渡ります。秀吉もその強さを認め、標的を信雄に集中させ和睦に持ち込みます。
信雄の援軍として参戦していた家康も大義名分を失い、この戦いは幕を閉じます。このことからこの戦い、
「戦略的には秀吉の勝ち」
「戦術的には家康の勝ち」
と言われることがあります。
天下統一!したものの……
一大勢力となった秀吉は、次々と他の戦国大名たちを屈服させていきます。そして西暦1590年、秀吉は天下統一を果たします。
が、戦は終わりませんでした。
朝鮮出兵の始まりです。この朝鮮出兵の理由ですが、以前から
⚫︎明への進出構想
秀吉は、朝鮮を通って明(現在の中国)へ進出しようと考えていました。そのため、朝鮮出兵は朝鮮だけを目的とした戦いではなかった。
⚫︎国内統治の安定
天下統一によって国内の大きな戦がなくなったため、大名や武士の力を海外遠征へ向け、国内を安定させようとした。
とは言われてきましたが、最近ではこんな理由もあったとの見方が出てきております。それは、海外(ヨーロッパ)からの侵略を防ぐため。
秀吉は、当時アジアへ勢力を広げていたスペインやポルトガルの存在を知っていました。
そのため近年は、「日本が外国の勢力に飲み込まれる前に、日本を中心とした国際秩序を築こうとした」という見方もあります。
つまり、朝鮮出兵は領土を広げるだけでなく、日本の安全や将来を考えた面もあったのではないか、という考え方です。
天下人、倒れる……
晩年の秀吉は、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の最中も戦況を見守り続けました。
しかし1598年、伏見城で病により亡くなります(享年61または62歳)。
秀吉の死はしばらく秘密にされ、その後、日本軍は朝鮮から撤退。
秀吉の死後、豊臣政権は次第に力を失い、やがて関ヶ原の戦いへと向かっていきます。規模こそ凄まじいものでしたが、一代で築き上げた勢力はまだまだ基盤が出来ておらず、危ういものでした。
さらには朝鮮出兵により多くの損失があったにも関わらず、何も得るものがなかったことも豊臣政権が崩れる要因に拍車をかけました。
もし、秀吉がもっと長生きしていれば……
もし、朝鮮出兵しなくて済む選択があったならば……
歴史にifはありませんが、あれこれと空想が広がっていきます。
天下人を支えた、才気あふれる者たち
竹中半兵衛
天才軍師として名高い竹中半兵衛(たけなかはんべえ)。彼は、わずかな兵(16〜17人)で難攻不落とされた稲葉山城を鮮やかに奪いました。
力で押し切るのではなく、知略を駆使して勝利をつかみ、その名を天下に知らしめます。
この見事な奇襲は、後に「天才軍師」と称えられる半兵衛を代表する逸話であります。
が……
当時は軍師という言葉は使われておりませんでした。
黒田官兵衛
黒田官兵衛(くろだかんべえ)。彼もまた高い知力を持っていたとされ、豊臣秀吉の天下統一事業に大きく貢献しました。
この竹中半兵衛・黒田官兵衛、二人合わせて「二兵衛」もしくは「両兵衛」と呼ばれており、彼らの活躍なくして、豊臣秀吉の天下統一は成しえなかったとも言われます。
彼を語る上で、こんなエピソードがあります。
本能寺の変の知らせを受け動揺している秀吉に、官兵衛が「殿、ご運が開けましたな」と言ったという逸話。つまり
「いま明智光秀を討ち取れば、あなたが天下人になれますよ」
ということ。なかなかにギラギラした話ですが、おそらくはフィクション。これが確認できるのは、事件から長い長い年月がたった江戸時代の逸話集です。
それでも、官兵衛の冷静さや先見の明を象徴する名場面として、現在も広く語り継がれています。
豊臣秀長
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟』の主人公であり、秀吉の弟。
豊臣秀長(とよとみひでなが)は、兄・秀吉を支え続けた、最も信頼された弟でした。戦場では軍を率い、各地の戦いで秀吉を助け、大きな戦果を挙げました。
戦だけでなく、領地の管理や政治にも優れ、秀吉が安心して天下統一を進められるよう支え、秀吉が感情的になったときには冷静に助言し、周囲との調整役を務めることもできる数少ない人物でした。
彼は表舞台で目立つことは少なかったものの、豊臣政権を陰から支えた重要な存在だったと評価されています。
石田三成
石田三成(いしだみつなり)は、とても算術に長けた人物で、前線で戦うよりも、軍を支える裏方の仕事で力を発揮しました。
兵糧や武器の準備、物資の運搬などを正確に管理し、大軍が戦える環境を整えました。
裏方と聞いて、「ふ〜〜ん、あんまり凄そうじゃないな」って思った方、おられます?
もしおられるなら、とんでもない。
こんなことわざがあります。
「素人は戦略を語り、プロは兵站を語る」
「兵站」(へいたん)とは、兵糧や武器、物資を前線へ届け、軍を支え続ける仕事のことです。
どれほど強い武将でも、兵站が途絶えれば戦うことはできません。だからこそ、本当に優れた武将は、戦いそのものよりも「勝ち続ける仕組み」の大切さを知っていました。
豊臣政権では財政や行政にも携わり、その優れた事務能力で秀吉を支えました。
華やかな武勇よりも、緻密な計画と実務で天下統一を支えた名奉行として知られています。
秀吉が世を去って2年後、西暦1600年に起こる関ヶ原の戦い。これは形としては豊臣政権内の内部抗争ですが、次の天下を狙う徳川家康が豊臣勢力を崩すための戦という見方もできます。
その豊臣勢力の中心人物として戦ったのが、この石田三成でもありました。
はい、いかがだったでしょう。
秀吉さんに関しては信長さん同様、深掘れば深掘るほど話が膨らんでいきますが、今回はここまでとします。
これは何度も書かせていただいたことかと思うのですが、大事なことなので今回も。
こういった戦国時代など私たちが直接感知していない領域のことを明らかにしていく作業というのは、どこか “真っ暗闇での探し物” みたいな部分があります。
新しい史料が見つかったからといって、それが本当かどうかを検証しないといけません。時には仮説の上に仮説を組み立てる、なんてことも起こります。
本当のことというのは、なかなか分からないものです。有名な専門家さんが「こうだ!」と言っても、後で間違っていたことが判明なんてことも普通にあります。
なので私は、
「こうゆう史料があります」
「こうゆう説があります」
「私はこう考えております」
でも!
「実際にはわかりませんよ」
というスタンスで歴史と向き合っております。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
《戦国記事置場》
戦国記事すべて置いてあります
感謝感謝っ✨



















ジャミさん、こんにちは
あまり歴史に詳しくないので
豊臣秀吉と周りの武将との関係性など、すごくわかりやすかったです。
朝鮮出兵は、秀吉が老害になったからかと思っていましたが、ヨーロッパのこととか、色々な可能性があったんですね。学べました。
ありがとうございます☺️
今、ちょうど大河でやっているので再考しています。本当に頭の良いプラスコミュお化けの人だったんだなと思いました。秀吉を見ていると、出自も関係ないなと思いました。(本当に優秀な人は出てくるのだなと思います)。でも最後はやはり寿命なんですね、悲しいことに。