戦国武将紹介 織田信長
革命児……ではない?
戦国武将と言えば?まず思い浮かぶのはこの方ではないでしょうか。
織田信長さん
以前にも三英傑の記事にて簡単に書かせていただきました。
まずはおさらいとしまして、こちらに書かれていることを超簡略化して、改めて書き出しておきますね。よろしければ記事もご覧くださいませ。
⚫︎新しいもの好きで革新的な人物。
➡︎間違ってはいないかも知れないが、近年では伝統を重んじていた面も強いという見方が主流な印象。鉄砲を積極的に取り入れたのは彼だけではないし、楽市楽座も彼が最初に始めたわけでもない。
⚫︎朝廷や将軍をないがしろにしていた。
➡︎近年ではむしろ大切にしていたという見方が主流な印象。
⚫︎桶狭間の戦いは超劣勢の中での、奇跡の大逆転だった。
➡︎近年ではそこまで極端な戦力差だったわけではないのでは?という見方が主流な印象。
⚫︎天下布武とは日本全国を武力で平定すること。
➡︎初期においての天下とは畿内(きない)、つまり京都を含むその周辺の地域のこと。
また武力で平定というのは、イコール戦闘力(暴力)でねじ伏せるという意味ではない(それを武力と呼ぶのであれば間違ってはいない)。
とまぁ、織田信長に限らず新しい史料の発見や研究が進むことによって今まで定説とされてきたことが覆ることがよくあります。
歴史は一度覚えて終わりというものではなく、どんどん更新されていくものなので大変な面はありますが、それもまた歴史の魅力のひとつかなとも思います。
それも踏まえまして、今回も記事を書かせていただきます。
天下統一はいつから目指していた?
もしかしたら皆様の中には、戦国武将と言えば、誰しも天下統一を狙っていたと思われている方もおられるかも知れません。
が、そうとも限りませんし、もっと言えば天下を狙った人の方が少数だと思います。まずは領国経営。領地拡大を視野に入れていても、まずは近隣の地域しか手を伸ばせない。
信長さんが生まれた織田家も、北の斎藤氏・東の今川氏と緊張状態にあり、バチバチやっている地方の一勢力。
そして斎藤道三(さいとうどうさん)の娘・帰蝶(きちょう)と政略結婚することにより同盟関係に。北の憂いがなくなったかと思いきや、斎藤道三の息子・義龍(よしたつ)が父・道三を討ち、またも織田と斎藤は敵対関係に。
西暦1560年、東の今川義元(いまがわよしもと)と激突!この桶狭間の戦いにより義元を討ち取ります。
が、まだこの段階でも近隣諸国とのバチバチを続けているだけです。その後、北の斎藤氏に攻めかかり、
西暦1567年、織田信長は斎藤龍興(たつおき)を破り、美濃平定を成す。まだこの時も、彼は地方の一勢力に過ぎません。美濃を攻め取ったからとて、天下統一を狙っているとはみなせません。
が、その翌年の1568年、足利義昭(あしかがよしあき)が信長に庇護を求めてきたことから、流れが一気に変わります。この足利義昭は室町幕府の将軍の血筋。
この、将軍をバックアップするポジションを得られたことにより、はじめて “天下” に自分が関わるという実感を得たのではないでしょうか。
一大転機となった将軍擁立
織田信長は足利義昭を補佐し、見事彼を室町幕府第15代将軍の座へと据えることに成功しました。が、この辺りから信長さんの敵は一気に増えます。
朝倉・浅井・比叡山・本願寺・毛利、そして戦国最強とも名高い武田信玄までもが敵となり、信長包囲網を形成します。
が、なんと信長さんは結果的にはそれらを蹴散らしていきます。信玄の病没など、運の良さも含まれておりますが。
この辺りではないでしょうかね、彼が天下統一(畿内だけでなく、本州・四国・九州 全体)を視野に入れていったのは。
ある意味、隣国との戦に勝って領地拡大という、それまでやってきたことの延長ともとれるかも知れません。上記の信長包囲網やってた勢力を倒して支配下に置けば、もはや日ノ本(ひのもと)で一番強い勢力になりますから。
日ノ本すべてを支配できる可能性が見えたことで、天下統一も自然と視野に入ったとも言えるのではなかろうかと考えております。
仮にもし織田信長がこの時、日ノ本全土を視野に入れていたとしても、あくまで足利義昭を、室町幕府をサポートするポジションとして自分を捉えていた可能性も否定できません。
庇護していた足利義昭までもが敵に
そしてこれも重要事項、足利義昭との決裂。かつては最初から信長は足利義昭を利用して天下統一の足掛かりとした、と言われていたのですが近年では、最初は本気で将軍(幕府)を盛り立てていたのに折り合いが合わず決裂してしまったという見方が強い印象。
信長は義昭に「勝手なことはしないで(超意訳)」的な態度をとります。そのことから義昭は不信感を抱いたのか、信長と敵対する要因となったとされる。
かつてはこの足利義昭こそが信長を追い落とそうとしていた黒幕という見方をされることもありましたが、彼が明確に反旗を翻すのは
西暦1573年の三方ヶ原の戦いの後。武田信玄が侵攻し、徳川・織田連合軍が惨敗した後。すでにピンチだったところ、さらにもうダメだ〜という状況になって、ようやく義昭は信長と敵対するのです。
が、信長にとっては運良く、義昭にとっては運悪く、信玄が病没。信長の逆転勝利のような状況となったのです。
そして、将軍を補佐して天下統一事業(もうこの段階では畿内に留まらない?)やってたのに、主軸たる将軍がいなくなってしまった。だから結果的に、信長本人がトップとしてやっていくしかなくなった?という見方もよく耳にするようになりました。
😳 🥹 🤔 😳 🥹 🤔
……あぁ、なんだか読者様の反応が二分している気がしてなりません🥹
戦国ファンの方であれば、
「へ〜〜、今はそうゆう見方されてるんだぁ」
戦国初心者さん
「…………え〜っと……え?よく分かんない😝」
って感じになってるような気もしますので、簡単に、超簡略化してまとめますと、
【以前】
織田信長は将軍の権威を利用して、独裁的に天下統一事業を進めていった。
【最近】
織田信長は将軍の補佐役としてまずは天下(京都とその周辺)を治めようとして途中までは上手くいったけど破綻。そこからは自力で天下(日ノ本全土?)統一を目指すようになったのでは?
てな感じであります。
織田信長って強いの?
なんだか凄そうな織田信長。さぞかし強いんだろうと思われる方もおられるかも知れません。が、戦の勝率に関しては決して高くはない。けっこう負けてます。
勝率でいえば武田信玄や上杉謙信の方が上。
なのですが……
彼の場合は、一代で拡大し過ぎたため短期間で戦線が広がり、戦力が追いつかなかったことも多々あるようにも見えます。なので弱いのかと問われれば、決してそんなことはないと思います。
特に親衛隊とも言える馬廻(うままわり)は、なかなかの強さだったのではないでしょうか。一大決戦ともなった桶狭間の戦い。
信長本人が自ら率いたこの精鋭部隊で敵本陣に突撃!見事、敵総大将・今川義元(いまがわよしもと)を討ち取っております。
6メートルもの槍?
以前の記事でも書きましたが、戦国期の合戦での接近戦のメイン武器は長槍でした。文字通り、長い槍です。
長いのでしなってしまい、槍でありながら突くにはやや不向き。ですが、そのしなりを利用して叩きつければ凄まじい打撃力となり、なんと甲冑を陥没させるだけの破壊力があります。
4メートルを超える長さですが、なんと信長さん率いる織田軍の長槍隊は、6メートルにも達したそうです。
「そんな長い槍つかえるんかい!💦」
ってぐらい長いですが、長いぶんだけリーチの面で有利になりますし、しなりを利用しての打撃力も強くなります。
必ずしもリーチが長い方が有利とも限りませんが、上手く使いこなせればその分だけ接近戦にてイニシアチブを握れます。
湊(みなと)をおさえた強み
西暦1543年に日本に伝来したとされる鉄砲(諸説あり)。織田信長は積極的に鉄砲を導入しました。
鉄砲戦術をいかんなく発揮した戦いといえば、西暦1575年に起こった長篠の戦いを思い浮かべます。
織田・徳川連合軍 vs 武田軍。信玄が没したとはいえ、まだ戦国最強とも恐れられた将兵たちが残っておりました。
その戦いに、織田信長は勝利します。
大量の鉄砲を用いた戦い方で武田軍を撃ち破りました。
が、武田軍も鉄砲の重要性は理解しておりました。かつては総大将・武田勝頼(たけだかつより)が銃撃されながら無謀な突撃を繰り返して負けてしまったと言われておりましたが、実際にはそうではなかったようです。
まず手配した鉄砲の数に差が出てしまった。そして鉄砲そのものも重要ですが、それを武器として使用するための火薬。
その原料として硝石(しょうせき)が必要でしたが、日本ではほとんど産出されず、海外からの輸入に頼っておりました。
つまり、湊(みなと)をおさえているかどうかが硝石獲得において重要だったのです。信長は津島や堺などの湊を支配下に置いていたのに対し、武田の領地は海に面しておらず不利となっていたのです。
さらには野戦としては、当時では珍しいほど本格的な陣地構築をしていたともされ、鉄砲戦術をより一層強力なものにしておりました。なので信長はこの戦い、勝つべくして勝ったと言えるのかも知れません。
って考えると、やっぱり信長さんは総合力としての強さを持っていたようにも思えます。
兵農分離が強さの秘訣?
兵農分離(へいのうぶんり)という言葉、聞いたことありますでしょうか?
以前にもどこかで書いた内容ですが、
一昔前の説にて
「兵農分離を推し進めたことが信長さんの強さの秘訣だ!」
とささやかれたりしていたんですね。
どうゆうことかと言いますと、一般的に戦国武将は戦が起こった際に領内の農民を兵士として徴収し戦わせておりました。
が、収穫時期など農業に人手が必要なタイミングでは兵士にすることが出来なかった。
それを、農民は農民、兵士は兵士として完全分業にして一年中戦ができる体制を整えた。
だから強くなったというもの。
しかしながら近年の研究では、
⚫︎戦国末期にも武士であり農民でもある土豪・地侍が多数存在した。
⚫︎地域によって実態が大きく異なった。
⚫︎「兵農分離」は一つの政策というより長期的な社会変化だった。
という見方が強まっています。
特に近年よく言われるのは、
「兵農分離という政策があったのではなく、兵農分離という結果が徐々に形成された」
という考え方です。
したがって、織田信長が兵農分離を完成させて強い軍隊を作ったという説についても、近年は慎重な見方が増えています。
家臣の城下町集住は確認できるものの、「制度として完成した兵農分離」を示す明確な根拠は十分ではないとされています。
とはいえ、現在の研究者の間では
「兵農分離は存在しなかった」
ではなく、
「従来考えられていたほど単純でも急激でもなかった」
という理解が主流です。
織田軍は精鋭揃い
織田信長の強さは昔からあれこれと語られております。その中に、優秀な部下が揃っていたことが挙げられます。
柴田勝家
柴田勝家(しばたかついえ)。織田軍きっての猛将で、戦に強い。信長の父・信秀(のぶひで)の代から仕える古参の武将。戦線が拡大すると、北陸方面の司令官を任される。
丹羽長秀
丹羽長秀(にわながひで)。軍事・行政の両面で信長を支えたオールラウンドな武将。信長から厚い信頼を受け、なくてはならない存在である米に例えられ「米五郎左」(こめごろうざ)と称される。
佐久間信盛
佐久間信盛(さくまのぶもり)。織田軍創成期から信長を支えた宿老で、主に畿内方面の軍事を担当した。「退き佐久間」(のきさくま)の異名を持ち、撤退戦を得意とした。
が、戦果不足などを信長から叱責され追放される。
明智光秀
明智光秀(あけちみつひで)。行政・外交・軍事に優れ、京都の政務や朝廷・将軍家との折衝でも信長を支えた。
が、西暦1582年、本能寺の変にて信長を自害に追い込む。反旗を翻した理由は、様々な憶測はあれど明らかになっていない。
豊臣秀吉
豊臣秀吉(とよとみひでよし)。織田軍の方面軍司令官として中国地方の攻略を任された武将。
戦だけでなく、交渉や物資の運用にも優れ、多くの城を味方に引き入れた。
信長の最有力家臣となり、本能寺の変後に天下人への道を歩むこととなる。
なお、彼が豊臣を名乗るのは1586年のことで、信長がこの世を去ったあとのこと。
彼の人気は昭和から?
今でこそ人気者の信長さんですが、昔はそうでもありませんでした。
江戸時代
⚫︎信長は「逆臣」「苛烈な武将」として語られることが多く、現在ほどの英雄視はされていませんでした。
明治~大正
⚫︎近代国家建設の文脈で「天下統一の先駆者」と評価され始めます。
⚫︎歴史小説などでも取り上げられる機会が増えます。
昭和
⚫︎信長人気が大きく高まります。
理由として、歴史研究の進展や信長公記(しんちょうこうき)など一次史料の重視、さらには司馬遼太郎をはじめとする歴史小説、そしてテレビドラマや映画、歴史漫画などが重なり合うような形で人気が膨れ上がっていったようです。
特に1970年代以降は、テレビの普及によって信長の知名度・人気が全国規模で急速に高まったことは間違いないでしょう。
はい、いかがだったでしょう。
信長さんに関しては深掘れば深掘るほど話が膨らんでいきますが、今回はここまでとします。
これは何度も書かせていただいたことかと思うのですが、大事なことなので今回も。
こういった戦国時代など私たちが直接感知していない領域のことを明らかにしていく作業というのは、どこか “真っ暗闇での探し物” みたいな部分があります。
新しい史料が見つかったからといって、それが本当かどうかを検証しないといけません。時には仮説の上に仮説を組み立てる、なんてことも起こります。
本当のことというのは、なかなか分からないものです。有名な専門家さんが「こうだ!」と言っても、後で間違っていたことが判明なんてことも普通にあります。
なので私は、
「こうゆう史料があります」
「こうゆう説があります」
「私はこう考えております」
でも!
「実際にはわかりませんよ」
というスタンスで歴史と向き合っております。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
【戦国パンダ部長】全種一覧
https://jaminism.hatenablog.com/entry/2024/08/15/143713
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《戦国記事置場》
1534回ぐらい引用リスタックしてくれると嬉しいです🥹
























ジャミさん、歴史は時代と共に変わるんですね。驚きです。
そして、6mの槍は凄すぎます∑(゚Д゚)それだけ叩かれた時の威力もすごそうですね…バチンバチン!!
ジャミさん、私は信長さんは経済を潤してくれたという点でとても評価しているんです。お金がないとアートまでいかないですから。