戦国武将紹介 長宗我部元親
四国の覇者となった土佐の姫鬼武将
長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)は、土佐(現在の高知県)を統一し、さらに勢力を広げ、四国のほぼ全域を支配下に収めた戦国大名です。
四国の覇者とまで呼ばれる長宗我部元親ですが、最初から大勢力だったわけではありません。
元親が家督を継いだ頃の長宗我部氏は、土佐七雄の一つに数えられる地方豪族でした。
土佐には他にも有力勢力が割拠し、長宗我部氏が土佐を統一できる保証はどこにもありませんでした。
そんな状況から土佐一国に留まらず、四国統一目前まで駆け上がった元親は、どんな戦国武将だったのでしょう。
姫から鬼へ、大変身!
元親にはこんな逸話があります。
色白で細身、物静かな性格だったため、家臣から「姫のような若君」という意味で、「姫若子(ひめわこ)」と呼ばれていたと伝えられています。
ところが1560年、彼の初陣(ういじん。生まれて初めての戦)にて周りのイメージを大きく覆し、鬼のように大奮戦!
元親は自ら敵陣へ突撃し、勇敢に戦ったと伝えられ、それまで頼りないと思われていた若君への評価は一変しました。
この戦いをきっかけに長宗我部軍は勢いを増し、戦いを有利に進めていきます。
その後も元親は自ら軍を率いて各地を転戦し、「姫若子」はやがて「鬼若子(おにわこ)」とまで呼ばれるようになったと伝えられています。
なお、「姫若子」「鬼若子」の呼称やこの戦いでの劇的な活躍は、『土佐物語』など後世に成立した軍記物に見られる逸話であります。
土佐統一!そして四国制覇へ突き進む
元親はまず本山氏との戦いを進め、土佐中部の支配権を拡大。続いて東部の安芸氏を滅ぼし、西部で勢力を持っていた一条氏とも戦いました。
一条氏は京都の公家・一条家の流れをくむ名門でしたが、元親はこれを退け、1575年頃までに土佐をほぼ統一します。
土佐統一によって兵力や経済力は大きく増し、四国全域へ進出する基盤が整いました。
土佐の一地方豪族だった長宗我部氏は、この頃には四国有数の戦国大名へと成長していたのです。
土佐統一後、元親は阿波・讃岐・伊予へ進出します。
阿波では三好氏と争い、讃岐では十河(そごう)氏を圧迫し、伊予では河野氏などと戦いながら勢力を拡大しました。
戦だけではなく、有力国人(地元の武士たち)を味方に引き入れるなど巧みな政治も行い、四国各地で影響力を強めていきます。
1580年代には四国の大半を支配下に置き、四国統一は目前となりました。
四国一円をほぼ勢力下に置いた武将は極めて少なく、元親の快進撃は全国から見ても大きな成功例でした。
ツヨツヨな農民兵・一領具足
長宗我部軍の強さの一つとしてよく語られるのが、「一領具足(いちりょうぐそく)」です。
一領具足とは、普段は農業を営みながら、有事には自ら武具を身につけて出陣する兵たちのことです。
彼らは農作業をしているときでも田畑の近くに一領、つまり1セットの武器防具を用意しておき、いざ戦の報せが届くとすぐさまそれを装備し、戦に出向きます。
一領具足の最大の強みは、動員の速さ。
一般的な戦国大名は、陣触れ(じんぶれ。家臣や配下の武将へ出陣の命令や軍勢の動員を知らせた布告・軍令のこと)を出した後、領内各地に散らばる農民を兵士として集める必要があり、戦力が揃うまで時間がかかりました。
一方、一領具足はここが大きく違います。
『日本大百科全書』では、槍に草鞋や兵糧をくくりつけ、具足を田の畔に置き、「事あるときは直ちに軍務につく」と説明されています。
そのため、陣触れが出れば農作業を中断し、そのまま武装して出陣できました。高知市の解説でも、「クワ・スキを放り出し、その場から出陣していく」と紹介されています。
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つまり、一領具足の価値は兵の強さそのものよりも、命令から実際に戦力となるまでの時間が非常に短かったことにありました。これにより、長宗我部元親は土佐から四国各地へ迅速に軍を動かすことができたと考えられています。
彼らは単なる足軽ではなく、土地を持ちながら軍役を務める存在であり、長宗我部軍の中核を担いました。
元親は一領具足を組織的に動員し、大軍を維持しながら四国各地への遠征を可能にしました。
経営者として腕を振るう
また、元親は戦だけではなく領国経営にも力を入れ、『長宗我部元親百箇条』と呼ばれる分国法を制定しています。
家臣の規律や裁判、年貢、領地管理などを細かく定め、領国支配の安定を目指しました。
さらに検地(土地の広さや収穫量を調べて年貢の基準を決めること)も進めるなど、軍事だけではなく内政にも優れた戦国大名だったことが分かります。
上には上がいた
しかし、その前に立ちはだかったのは、元親以上に勢力拡大を続けていた織田信長でした。
当初は良好な関係を築いていたものの、信長は方針を転換してしまい関係は悪化。なんと織田軍は長宗我部討伐を決めてしまいます。
元親さん、ピンチ!Σ(゚д゚lll)
が、なんとその直前
天正10年6月2日(西暦1582年6月21日)、本能寺の変が起こります。織田信長は家臣・明智光秀の謀反、つまり裏切りにより自害に追い込まれるのでした。
ふぅ〜〜😮💨
助かったぁ〜〜🫠
と、思いきや、
信長亡き後の織田勢力をのっとり、天下統一を進める羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が立ちはだかります。
敵は圧倒的な兵力で四国各地から一斉に侵攻。これに対し元親は各地で迎え撃ちましたが、兵力差は大きく、長期間の抵抗は困難でした。
元親は最終的に降伏を決断し、秀吉に臣従。その結果、阿波・讃岐・伊予の三国を失い、土佐一国のみの領有を認められます。
四国統一まであと一歩だった元親の夢は、ここについえることとなりました。
悲劇、晩年、終焉
秀吉への臣従後、元親は1587年の九州攻めにも従軍します。
しかし豊後で行われた戸次川(へつぎがわ)の戦いで、嫡男・長宗我部信親(のぶちか)が討ち死に。
信親は武勇だけでなく統率力にも優れ、家臣たちからも将来の当主として大きな期待を集めていました。
最も頼りにしていたであろう息子を失った元親の心境はいかばかりか……
その後は四男・盛親を後継者に定めますが、この決定は家中にも影響を与えました。
後世には、「信親の死を境に元親は以前の冷静さを失い、一族や重臣を粛清するようになった」と語られることがあります。
これは後世の評価や解釈なので真偽は分かりませんが、それまでの流れとは打って変わってしまったように感じられます。
それから時は流れ
西暦1599年、元親は亡くなります。
家督を継いだ盛親は関ヶ原の戦いで西軍に属しましたが敗北。戦後に土佐を失い、長宗我部家は大名としての歴史に幕を下ろしました。
しかし、元親が土佐の一地方豪族から出発し、四国統一まであと一歩というところまで勢力を拡大した功績は、現在でも高く評価されています。
戦場で勝ち続けた武将であるだけでなく、法や検地を整え、一領具足を活用して領国を築き上げた統治者でもありました。
「姫若子」と呼ばれた若き当主が四国の覇者へと成長した生涯は、戦国時代を代表する立身出世の物語の一つとして、今なお多くの人々に語り継がれています。
一芸に熟達せよ
これは長宗我部元親本人が言ったする確証はありませんが、彼はこんな言葉を残したと伝えられております。
「一芸に熟達せよ。多芸を欲ばる者は巧みならず」
意味は、「あれこれと手を広げるのではなく、一つのことを徹底的に極めなさい」と言われてはおります。が、私はそれは少し狭い解釈のように思えます。
確かに初期はそうかも知れない。あまり手を広げ過ぎて「二兎追う者は一兎も得ず」にならないでね、というニュアンスはあるかと思います。
が、いったん一つの分野を極めたならば、他の分野にも応用できるのでは?
さらには
深き領域に到達できた者のみ、他の深き領域に到達した者のことを推し量ることができるのでは?
といったニュアンスも感じるのです。
達人同士は、たとえ相手のことを知らなくとも、その存在に少し触れただけでその奥深さを理解できてしまう、みたいな。
願わくば、私もその領域にまで到達したいものであります😌
私は戦国時代や戦国武将さんに興味があり、2020年にTikTokにて発信を始めました。
興味はありました。が、詳しいわけではありません。なのでまずは調べることから始めました。すると、世間一般で言われていることが実は何の根拠もなく言われていることがあまりに多いことを知ります。
先にご紹介しました名言もそうですね。戦国武将さんが言ったとされる格言。実際のところ、本当なのか確認できず誰が言い出したのか分からない(もちろん本当かも知れない)。
なぜこんなことが伝わったのか?その出所は?そんなことが気になるようになっていきます。
その一つとして、後世に書かれた書物があります。江戸時代だとか、すでに戦国時代が終わってずいぶん経ってから書かれたもの。
歴史研究においては一次史料、つまり当時書かれた史料が信憑性が高いとされる傾向があります。そりゃそうですよね、リアルタイムのものですから。
しかしながら、かと言って後世に書かれたものが信憑性が低いかと言えば、そうとも限りません。
他の史料や研究結果などと照らし合わせ、信憑性がいかほどなのかを吟味する必要があります。さらには新しい史料の発見や研究が進むことにより、それまでの通説がガラッと覆ることもよくあります。
なので私は、
「こうゆう史料があります」
「こうゆう説があります」
「私はこう考えております」
でも!
「実際にはわかりませんよ」
というスタンスで歴史と向き合っております。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
《戦国武将診断》
さて、あなたはどんな武将さんに近いのでしょう?もしくは、どんな武将さんのご加護があるでしょう?
【戦国パンダ部長】全種一覧
https://jaminism.hatenablog.com/entry/2024/08/15/143713
《戦国記事置場》
戦国記事すべて置いてあります
















ジャミさん、こんにちは。
長宗我部さんは苗字のインパクトが強くて、すぐに覚えた武将の一人です。
私は一領具足の制度が特徴的だと感じていました。正式な武士ではない領民と御恩と奉公の関係を築くのは容易ではなかったと思いますが、きっと強くて正しい領主だったのではと思います。
長宗我部元親、キャラ立ちしてるのでよく名前を見かける武将の一人ですね。
四国統一まで行ってたら、もしかしたら今の四国は一つの県として残っていたのかも?
四国統一を成せず、嫡男まで失って、なかなか悲しい晩年だったのかなと思います。