皆様は、直江兼続(なおえかねつぐ)という戦国武将さんをご存知でしょうか?
ご存知の方は、どのような人物を思い浮かべますでしょうか?
「愛」の前立て。
上杉景勝の右腕。
名参謀。
このあたりを思い浮かべる方が多いかもしれません😌彼は武勇だけでなく、政治や内政でこそ真価を発揮した武将でした。
今回は、そんな直江兼続さんをご紹介させていただきます。
『愛』の前立て
直江兼続といえば、「愛」の前立てを付けた兜が有名です。
現代では「愛」という字は、恋愛を思い浮かべる方も多いかもしれません。しかし戦国時代の武将さんは、恋愛の意味でこの文字を掲げていたわけではありません。
戦勝や武運を祈る対象でもあった愛宕権現(あたごごんげん)への信仰を表したもの、あるいは愛染明王(あいぜんみょうおう)への信仰を表したものではないかという説が有力です。
そのほか、「仁愛」の意味を表したという説もありますが、どの説が正しいのか私には断定できません😌
主君・上杉景勝との二人三脚
直江兼続は幼い頃から上杉景勝(うえすぎかげかつ)に仕えました。
1578年、上杉謙信が亡くなると、後継者をめぐって上杉景勝と上杉景虎(かげとら)が争う「御館の乱(おたてのらん)」が起こります。
兼続は景勝を支え、この内乱を勝ち抜くことに大きく貢献しました。
その後も軍事だけでなく、政治や外交、領国経営など幅広い分野で景勝を補佐し、上杉家を支え続けます。
しかし当時、全国では豊臣秀吉が天下統一を進めていました。
1585年、秀吉が関白となり、全国の大名たちは次々と秀吉に従っていきます。上杉家もまた、秀吉に臣従するという流れに。
兼続や景勝にとって本意ではなかったかも知れませんが、天下人となった秀吉に対抗し続けることは現実的ではなく、上杉家を存続させるための苦渋の決断だったように思えます。
その後、兼続は秀吉からも能力を高く評価され、政治や領国経営において重用されるようになります。
さらに1598年には、上杉家は会津120万石へ移封となり、全国有数の大大名となりました。
兼続は広大な領国の政治や内政を担い、景勝の右腕として上杉家を支え続けたのであります。
領国経営の手腕
上杉家が会津120万石へ移ると、兼続は広大な領国の経営を任されます。
検地(土地の広さや収穫量を調べて年貢の基準を決めること)を進め、新田開発や治水(川を整備して水害を防ぐこと)にも力を注ぎました。
さらに城下町の整備や産業の振興にも取り組み、人々が暮らしやすい領国づくりを進めます。
また、兼続は学問を重んじ、多くの書物を収集したことでも知られています。彼が集めた書物の一部は現在も伝わっており、「直江文庫(なおえぶんこ)」と呼ばれています。
この直江文庫には、中国の古典や兵法書、歴史書、仏教書など数千点に及ぶ書籍が含まれ、現在は米沢市上杉博物館などに伝えられています。
戦国武将というと戦ばかりが注目されますが、戦だけでは国は豊かになりません。兼続は、戦で国を守るだけでなく、政治によって国を豊かにした武将でもありました。
激戦!長谷堂城の戦い
1598年、豊臣秀吉が亡くなると、豊臣政権は大きく揺らぎ始めます。その中で徳川家康は諸大名との婚姻を進めるなど、次第に勢力を強めていきました。
一方、会津120万石を与えられた上杉家も、城の修築や軍備の整備を進めており、家康はその動きを警戒するようになります。
家康は上杉景勝に対し、軍備を整えている理由を問いただし、弁明を求める書状を送りました。これに対し、景勝に代わって返書を書いたのが直江兼続。
これが有名な「直江状(なおえじょう)」です。
その内容は家康を厳しく批判するもので、兼続の気骨を示す文書だったようです。略しに略すとこんな感じ
↓ ↓ ↓ ↓
「ウチが謀反(むほん。裏切りのこと)を企んでいるって?😩そんな根拠のない疑いをかけるくらいなら、まずはそちらの行いを見直したらどうですか😂」
「何の証拠もないのに疑われる筋合いはありません☺️むしろ、問題があるのはそちらではありませんか🤪」
これにブチ切れた家康は、上杉討伐の軍を起こします。実際にはこの直江状が引き金となったか、はたまた怒ったのはポーズのみで「これを戦の大義名分としよう」と思っただけなのかは不明です。
いずれにせよ、時代は大きく動きます。全国の戦国大名たちは、家康に同調するのか、それとも反旗を翻すのか。
ここに、天下分け目の大戦が始まります。
1600年、関ヶ原の戦い!
全国の戦国大名たちは家康側の東軍か、石田三成を中心とする西軍かに二分されることとなり、上杉家は西軍に味方しました。
兼続は約2万の軍勢を率いて、東軍についた最上義光(もがみよしあき)の領国へ侵攻し、長谷堂城(はせどうじょう)を包囲します。
迎え撃った最上義光は、東北でも有数の実力者として知られる戦国大名でした。兵力では上杉軍に及ばないものの、堅固な長谷堂城を拠点に粘り強く防戦します。
さらに義光は伊達政宗(だてまさむね)へ援軍を要請し、政宗もこれに応えて援軍を送りました。
最上・伊達 連合軍は上杉軍の攻撃を防ぎ、戦いは激しい攻防となります。
しかし、その最中に関ヶ原で西軍敗北の知らせが届きました。兼続はこれ以上戦いを続けることはできず、撤退を決断。
撤退戦というものは非常に危険です。勝った側は勢いに乗って追撃し、敗れた側は隊列が乱れやすく、多くの戦死者を出すことも珍しくありません。
兼続は、自ら殿(しんがり)、つまり最後尾で味方の撤退を援護する役目を務め、追撃してくる最上軍・伊達軍を相手に奮戦します。
その間に上杉軍本隊は会津への撤退を進めました。
こうして兼続は軍勢をまとめ、上杉軍は会津へ退くことに成功します。
敗戦、苦難の日々
1601年、戦に敗れた上杉家は会津120万石から米沢30万石へ減封されます。領地は4分の1となり、多くの家臣を抱えたまま国を維持しなければならないという厳しい状況でした。
それでも兼続は景勝を支え続け、上杉家は江戸時代の大名として存続することに成功します。
1614年から始まった大坂の陣では、上杉家は徳川方として参戦。
かつて徳川家康と対立した上杉家も、この頃には徳川幕府のもとで家を残す道を歩んでいたのです。
そして1619年、兼続は米沢で亡くなります。享年60(満年齢58歳)。
上杉景勝は決して派手な武将ではありませんでしたが、その傍らには常に直江兼続という優れた参謀がおりました。
軍事、外交、領国経営
あらゆる面で景勝を支え続けた兼続は、まさに「上杉家の屋台骨」とも呼べる存在だったのではないでしょうか。
私が歴史系の発信をする際、あまり断定口調で書くことは多くないかも知れません。今回の記事においても、世間一般では “直江状が関ヶ原の戦いへのきっかけとなった” という説明がなされることもあります。
確かに最終的な一手に繋がった可能性はあります。が、私はあえて
ブチ切れた家康は、上杉討伐の軍を起こします。実際にはこの直江状が引き金となったか、はたまた怒ったのはポーズのみで「これを戦の大義名分としよう」と思っただけなのかは不明です。
という書き方を選びました。不確定な部分は、不確定であることも伝わる書き方の方が誠意があるかなと思っての判断です。
実際には分からないのです。
なので私は、
「こうゆう史料があります」
「こうゆう説があります」
「私はこう考えております」
でも!
「実際にはわかりませんよ」
というスタンスで歴史と向き合っております。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
《戦国武将診断》
さて、あなたはどんな武将さんに近いのでしょう?もしくは、どんな武将さんのご加護があるでしょう?
【戦国パンダ部長】全種一覧
https://jaminism.hatenablog.com/entry/2024/08/15/143713
《戦国記事置場》
戦国記事すべて置いてあります




















ジャミさん、直江兼続見逃してました!!
120万石から30万石へ、領地が大きく変わる中で、どう経営を立て直していったのか興味があります。
特に30万石になってからの経営には、今の時代にも活かせる工夫があるのかもしれませんね。
軍事、外交にも精通していたからこそ、難しい領地経営が出来たのかななんて想像すると楽しいです。
直江兼続は大好きです。直江津という地名も響が好きでした。