戦国武将紹介 石田三成
素人は戦略を語り、プロは兵站を語る
皆様は、石田三成(いしだみつなり)という戦国武将さんをご存知でしょうか?
ご存知の方は、どのような人物を思い浮かべますでしょうか?
関ヶ原の戦い。
西軍。
豊臣家。
このあたりを思い浮かべる方が多いかもしれません😌
戦国武将というと、戦場で敵を討ち取り、武功を重ねた武将が人気を集めます。
が、彼は少し違います。
もちろん戦場へ出陣することもありましたが、本当に才能を発揮したのは政治や行政の分野でした。
天下人・豊臣秀吉に重く用いられ、政権の中枢を支えた名奉行。
今回は、そんな石田三成をご紹介させていただきます。
近江国に生まれる
石田三成は永禄3年(西暦1560年)、近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町付近)に生まれたと考えられております。
しかし、三成の少年時代については、実は分かっていないことが少なくありません。
「三献の茶(さんこんのちゃ)」というお話があります。
ある日、羽柴秀吉(はしばひでよし。のちの豊臣秀吉)が寺へ立ち寄り、お茶を所望しました。
すると一人の少年が、大きな茶碗にぬるめのお茶を差し出します。
喉の渇いていた秀吉は、一気に飲み干しました。
もう一杯。
今度は少し小さな茶碗に、先ほどより熱いお茶。
さらにもう一杯。
最後は小さな茶碗に熱いお茶。
最初は喉の渇きを癒やすため。
次は少しずつ味を楽しめるように。
最後は香りまで味わえるように。
秀吉は、その心配りに感心し、その少年を家臣として召し抱えました。
その少年こそ、後の石田三成だった。という逸話であります。
おぉ〜😳
なかなか出来すぎたお話ですねぇ😌
有名な話ではありますが、この逸話を裏付ける同時代の史料は確認されておりません。
そのため現在では、後世に成立した逸話として紹介されることが一般的です。
とは言え、三成が若くして秀吉に仕え、その才能を認められていったこと自体は史料から確認できます。
三献の茶は史実とは断定できませんが、「相手をよく見て行動できる人物」という、後世の人々が抱いた三成像をよく表した逸話なのでしょう。
豊臣政権を支える
三成が秀吉に仕え始めた正確な時期は分かっておりませんが、天正年間(西暦1573〜1592年)には近臣として活動していたことが史料から確認できます。
その後、秀吉が勢力を広げるにつれて、三成も重要な仕事を任されるようになっていきました。
ところで、武将さんの仕事って何だと思います?
敵と戦うこと。もちろんそれも武将の大切な仕事ですが、それだけでは国は動きません。
⚫︎領地を管理する。
⚫︎年貢を集める。
⚫︎兵糧を準備する。
⚫︎武器を整える。
こういったことも、国を治めるためには欠かすことのできない大事な仕事でした。どんなに強い武将でも、兵糧や武器がなければ戦えません。
つまり、戦で勝つためには、戦場で戦う将兵だけではなく、その裏で国を支える人たちの存在も必要だったのです。
石田三成は、まさにそうした分野で力を発揮した武将でした。いわば裏方。
数字に強く、物事を正確に処理する能力に優れ、検地(土地の広さや収穫量を調べること)や年貢の管理、兵糧や物資の調達など、豊臣政権を支える重要な仕事を数多く任されるようになります。
派手な武勇で名を上げた武将ではありません。と言いますか……あまり戦が得意な方ではありませんでした。
それでも、秀吉が天下統一を進められた背景には、三成のように政権を支える家臣たちの存在があったのです。
奉行として活躍する
三成は、豊臣政権で「奉行(ぶぎょう)」という重要なお仕事を任されるようになります。
奉行とは、現在でいう行政官や役人のようなお仕事です。土地を調べる。年貢を管理する。お城を築く。そして戦になれば、兵糧や武器、人員を整え、軍勢が滞りなく戦えるよう準備を進めます。
戦をするには「兵站(へいたん)」が必要。
兵站とは、簡単に言えば「軍隊を支えるお仕事」です。兵糧を集める。武器を運ぶ。兵士へ物資を届ける。
軍事の世界には、
「素人は戦略を語り、プロは兵站を語る」
という言葉があります。
誰が最初に言った言葉なのかは確認できませんが、広く知られている言葉です。
それほどまでに、兵站というのは戦の勝敗を左右する重要事項なのであります。
派手ではありません。目立ちません。しかし、この兵站がしっかりしていなければ、どれほど優れた作戦も絵に描いた餅。
戦場で武将や兵士たちが活躍できるのも、その裏で兵站を支える人々がいるからなのです。
三成は、この分野で非常に優れた能力を発揮しました。数字に強く、仕事も正確。秀吉から厚い信頼を寄せられ、豊臣政権を支える中心人物の一人となっていきます。
文禄・慶長の役
文禄元年(西暦1592年)。秀吉は朝鮮へ軍勢を送りました。これが文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役です。
三成も朝鮮へ渡っております。しかし、その役目は最前線で敵と戦うことではありません。兵糧や武器を管理し、大軍が戦い続けられるよう支えることでした。
前線では加藤清正(かとうきよまさ)や福島正則(ふくしままさのり)など、多くの武将たちが戦っております。一方で三成は、その軍勢全体を支える立場でした。
立場が違えば考え方も違います。そのことから三成と一部の武将との関係は、次第に悪化していったと考えられております。
武断派と文治派?
以前は、「武断派」と「文治派」が対立していた。そのように説明されることがよくありました。
武断派(ぶだんは)とは、加藤清正や福島正則のように武功で名を上げた武将たち。文治派(ぶんちは)とは、石田三成のように政治や行政を担当した人たち。どこかで、そのように習われた方もおられるかもしれません。
しかし現在では、この分け方は少し単純すぎると考えられております。当時の武将たちは、それぞれ立場も事情も異なります。協力することもあれば、利害が対立することもあります。
そのため、「武断派」と「文治派」という二つの勢力が対立していた、と単純に考えることはできないとする見方が現在では一般的になっております。
天下人・秀吉、墜つ
慶長3年(西暦1598年)。天下人・豊臣秀吉がこの世を去ります。
豊臣家を支えていた大黒柱を失い、政権は大きく揺らぎ始めます。
秀吉の跡を継いだのは、まだ幼い豊臣秀頼(ひでより)でした。当然、幼い秀頼だけで天下を治めることはできません。
そこで政権を支えるために置かれていたのが、五大老や五奉行と呼ばれる人々でした。三成も、その中心人物の一人として豊臣家を支えていくことになります。
が、豊臣家を巡る状況は大きく変わっていくこととなります。
徳川家康との対立
豊臣政権が揺らぐなか、次第に存在感を強めていった人物がおります。
それが、徳川家康。
家康は諸大名との婚姻を進めるなど、着実に勢力を広げていきました。
三成は、その動きを危険視していたと考えられております。
秀吉が築いた豊臣政権を守ろうとする三成と、新たな時代を見据えて行動する家康。
両者の考え方は、次第に大きく隔たっていきました。
関ヶ原の戦い
慶長5年(西暦1600年)。
ついに、天下分け目の関ヶ原の戦いが始まります。
三成は西軍の中心人物として挙兵しました。
一方、東軍を率いたのは徳川家康。
西軍にも東軍にも多くの大名が加わり、関ヶ原へと集った将兵は総勢約16万。
補足ですが、この関ヶ原の戦い、豊臣勢力 vs 徳川勢力 といったイメージを持たれてる方がおられるかも知れません。が、形の上では豊臣政権内の内輪争いであります。
また石田三成が西軍の総大将だと思われている方もおられるかも知れません。が、あくまで彼は西軍の中心人物であって総大将ではありません。西軍の総大将は毛利輝元(もうりてるもと)。
激戦となった関ヶ原の地。一進一退の戦況。そんな中、西軍の内部から東軍へ寝返る武将が現れます。
それが小早川秀秋(こばやかわひであき)。
これを皮切りに次々と寝返りが続出し、形成は一気に傾きます。
そして西軍は総崩れ。戦いは、わずか半日ほどで決着したと伝えられております。
関ヶ原で敗れた三成は逃亡しますが、まもなく捕らえられました。
最期
三成は京都の六条河原で処刑されました。
享年41歳。
三成の最期については、有名な逸話があります。
処刑の前に柿を勧められた三成は、
「柿は痰の毒だから食べない。」
そう答えたというお話です。
この逸話を裏付ける同時代の史料は確認されておらず、現在では後世に作られた逸話と考えられております。
とは言え、最後まで冷静沈着だった三成の人物像を表すお話として、現在でも広く知られております。
石田三成は、戦場で華々しい武功を挙げた武将ではありません。
しかし、豊臣政権を支えた功績は決して小さなものではありませんでした。
派手さはなくても、国を動かすためには欠かせない仕事があります。
政権の長続きこそしませんでしたが、豊臣秀吉は天下統一を果たしました。秀吉の天下統一事業は、石田三成のような裏方あってこそのものだったのです。
江戸時代になると、徳川家を中心とした歴史観の中で、三成は家康に敵対した人物として描かれることが少なくありませんでした。
そのため、融通が利かない人物、冷たい人物という印象を持たれる時代もありました。
しかし近年では史料の研究が進み、三成を一面的に評価することは少なくなっております。
⚫︎豊臣政権を支えた優れた奉行。
⚫︎実務能力に長けた行政官。
⚫︎豊臣家を守ろうとした人物。
現在では、このような様々な視点から研究が進められております。
戦国武将をはじめとして、人物や物事の評価というのは時代ごとに大きく変わることがあります。
なので私は、
「こうゆう史料があります」
「こうゆう説があります」
「私はこう考えております」
でも!
「実際にはわかりませんよ」
というスタンスで歴史と向き合っております。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
【戦国パンダ部長】全種一覧
https://jaminism.hatenablog.com/entry/2024/08/15/143713
《戦国記事置場》
戦国記事すべて置いてあります
じつは楽曲もつくってたりして🥳





















ジャミさん、昔よくスロットの『鬼武者』を好んで打っていました🎰
その時の敵役で、石田三成が出てきていたのですが、そのイメージとは裏腹に、『お茶の冷まし具合』まで創造できるなんて、めちゃくちゃデキルやつだなって思います🍵✨
そんな配慮されたら、秀吉も家臣に招き入れたくなるよねって納得で☺️
(次回の鬼武者シリーズの継続確定BGMはジャミさんので🎻✨)
ジャミさん、こんにちは😃戦国時代って目立った武将たちの物語が目につきます。見方を変えたら色んな人のドラマがありますよね(諸説あり)武将、部下、女達。まさに色々。
でもね、それが吹っ飛ぶくらい曲聴いてました。ゲームとか、戦国武将主人公にしたアニメとかに流れてるやつ‼︎
ありがとうございました😍