戦国武将紹介 武田勝頼
戦国最強の跡を継ぎ、武田家の最大版図を築き上げた猛将
戦国最強とも目される武田信玄。その跡を継いだのが武田勝頼(たけだかつより)。
この勝頼さん、一昔前はあまり良く語られてきませんでした。むしろ、暗愚な猪武者として悪しざまに語られることも多かったです。
父は優秀だったのに、武田を滅ぼすきっかけになってしまったかのようなニュアンスで。
しかし本当にそうなのでしょうか?
今回はこの、武田勝頼さんにクローズアップしていきたいと思います。
決戦!長篠の戦い
天正3年(西暦1575年)、三河国設楽原(現在の愛知県新城市)において、織田信長・徳川家康連合軍(約3万〜4万人) vs 武田勝頼軍(約1万5千人)の戦いが幕を開けました。
圧倒的な物量の鉄砲隊に向け、勝頼率いる無敵の武田騎馬隊は突撃をしかけます。
戦国最強と目されるさすがの騎馬隊も、鉄砲隊の一斉射撃には敵わず迎撃され、次々に倒れていきます。
しかし!それでも勝頼は無謀にも突撃命令を繰り返し、ついに壊滅してしまいます。
「武田は最強だ!」
「鉄砲?そんなもの、我が騎馬隊の前には敵ではない!」
そんな驕りがもたらした惨敗。
そしてその数年後、武田は織田に滅ぼされてしまいました。
と、語られてきた過去があります。が、実際にはどうだったのでしょう?
次々と覆る長篠の戦い
研究は進み、通説はどんどんと覆っております。
①鉄砲の重要性は分かっていた
②退路を断たれていた
③敵の陣地構築は凄かった
①
織田軍は大量の鉄砲を用意してこの戦いに臨みました。かつては勝頼は鉄砲を軽んじたため敗れる原因となったとも言われておりましたが、武田側が鉄砲を軽視していたとする史料はありません。
むしろ武田軍にも鉄砲衆がおり、鉄砲を戦術に組み込んでおりました。
しかしながら、彼らの直轄領である甲斐国(かいのくに)は海に面しておりません。
当時、鉄砲の弾を発射するために必要な火薬の原料の中に、硝石(しょうせき)というものがありましたが、これは海外からの輸入に頼っており入手が困難でした。
その反面、織田信長は湊(みなと)を有しており、圧倒的に有利。火薬のみならず、鉄砲の数そのものも弾丸も多く手に入れることが出来たのです。
②
「戦わずに逃げれば良かったじゃないか🧐」
なんて批判にさらされることもある勝頼さん。たしかに、手配できた鉄砲の数や火薬の量、さらには純粋な兵力差から見ても不利でした。
織田・徳川連合軍は約3万〜4万人
に対し、
武田軍は約1万5千人
不利です。普通に考えて不利です。
こんな戦力差で戦ってしまったのです。その点だけを見れば、たしかに無謀です。
が!
決戦前夜、武田軍は背後に位置する鳶ヶ巣山砦(とびがすやまとりで)を陥落させられ、退路を断たれたとまでは言えないまでも、後方の安全を大きく脅かされることとなりました。
そのことから、武田軍は戦況の悪化が進む前に織田・徳川連合軍に攻勢に出なければならない圧がかかった可能性も出てきます。
つまり、
「ヤ、ヤベェ😳動くなら早めに動いた方が良いかも😳」
「逃げる?いや、逆に危ういんじゃね?攻める?いけるか?いけるか?いや、いくしかねー!😤」
といった状況だったのかも知れません。逃げたくても簡単には逃げられない状況だった可能性があるのです。
③
そして決戦となります。が、織田・徳川連合軍の陣地構築は当時では珍しいほど本格的に行っており、鉄砲戦術をさらに効果的にしたともみられます。
もはや野戦というより攻城戦に近かったかも知れないほど。
……ん?😳
野戦って何?😳
攻城戦って何?😳
って声が聞こえてきそうですね😅
野戦(やせん)とは、城に立てこもって戦うのではなく、平野や山野などで軍勢同士が正面から戦うことです。
攻城戦(こうじょうせん)は文字通り城を攻める戦いであり、一般的に守る側が有利とされています。城には堀や城壁などの防御施設があり、攻める側はそれらを突破しなければならないためです。
ただでさえ兵力で劣っており、その上さらに不利な状況での戦闘となってしまいます。
が!武田軍はやっぱり強かった
決戦が始まると、武田軍は織田・徳川連合軍に対して果敢に攻め込みました。織田軍が築いた馬防柵(ばぼうさく)の一部を突破した部隊もあったとされ、決して一方的に押し返された戦いではありませんでした。
しかし、織田・徳川連合軍は馬防柵を生かした堅い守りと鉄砲での応戦により、武田軍は徐々に消耗していきます。それでも武田軍は繰り返し攻撃を仕掛け、最後まで勝機を見いだそうと奮戦しました。
が……
堅固な防御を崩し切ることはできず、次第に戦況は武田軍に不利となります。そして多くの将兵が戦いの中で倒れ、武田軍はついに撤退を余儀なくされたのでありました。
勝頼さん、まだまだ大活躍!
「そっかぁ、勝頼さん率いる武田軍、頑張ったけど負けちゃったのかぁ……」
「そしてそのまま滅んじゃったのか……」
と思われている方もおられるかも知れません。たしかに長篠の戦いは敗北しました。
が!
まだまだです!
むしろこれからです!勝頼さんが凄いのは。
長篠の敗北は、武田家滅亡への転機となったことは否定できないでしょう。しかし、この敗戦だけで武田家の命運が決まったわけではありません。
勝頼はその後も領国の立て直しに尽力し、高天神城を奪還するなど戦果を挙げるのです。
そして!
武田氏は最大版図を迎えるのです!
えぇ〜!?Σ(゚д゚lll)
武田家が一番領土を広げたのって、信玄の時代じゃなくて勝頼の時代なの!??Σ(゚д゚lll)
はい。有名な信玄公の時代ではなく、勝頼さんの時代なんですね〜、一番は😌
もちろんそれまでの土台があったからこそなので、勝頼さんが1人で成し遂げたことではありません。ありませんが、覚えておいて欲しいな、とも思います。
また、新たな本拠地として新府城の築城を進めるなど、武田家の再建にも力を注ぎました。
そのため近年では、「長篠で敗れた武将」という従来のイメージだけでなく、困難な状況の中でも領国の維持・発展に努めた当主として、武田勝頼を再評価する研究も進んでいます。
しかし、それでも……
最期
西暦1582年、織田・徳川連合軍による甲州征伐が始まると、武田軍は各地で離反や降伏が相次ぎます。
行き場を失った勝頼は、天目山(現在の山梨県甲州市)へ落ち延びます。そして最後まで戦うものの、力及ばず。自刃し、果てることとなりました。
享年38(満年齢36歳)。
長篠の敗北がよく語られがちな武田勝頼。しかし、父・信玄の跡を継ぎ、数々の困難の中で武田家を守ろうと戦い続けたその生涯は、近年あらためて見直されています。
今回の勝頼さんのように、かつては暗愚な武将だと語られた方が実は凄かったと再評価されることはよくあります。
時代によって評価される基準は変わりますし、そもそもとして正しい情報に基づいて語られていないことも多々あります。
そもそもとして、見つかったわずかな史料などをもとに、真っ暗闇の歴史のなかから断片的に拾い上げた情報には限りがあります。
研究が進むことによって通説がガラッと変わることは日常茶飯事。
なので私は、
「こうゆう史料があります」
「こうゆう説があります」
「私はこう考えております」
でも!
「実際にはわかりませんよ」
というスタンスで歴史と向き合っております。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
《戦国武将診断》
さて、あなたはどんな武将さんに近いのでしょう?もしくは、どんな武将さんのご加護があるでしょう?
【戦国パンダ部長】全種一覧
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ジャミさん、こんばんは。
勝頼さんの時に領地が最大化していたんですね。知らなかったです。私の中の印象が変わり始めてます。あぁ、また知らなかった知識が増えていく😁いつもありがとうございます✨
勝頼さんの評価が近年見直されているのは嬉しいですね。
だって、あの信玄公の後継者が、ただの暗愚とは思えませんもの。
今回も読み応えある記事をありがとうございました❗️