戦国武将紹介 武田信玄
最強 vs 最強の戦いは謎だらけ
戦国最強の武将と言えば?
いろいろな名前が挙がるとは思いますが、私がよく耳にするのはこの方、
武田信玄(たけだしんげん)
大名として活動していた期間の正式な実名は晴信(はるのぶ)。武田晴信。
武田信玄が「戦国最強」と称される理由としては、以下のことが挙げられるでしょう。
⚫︎多くの合戦で勝利を重ね、勢力を大きく広げたこと。
⚫︎優秀な家臣団をまとめ、組織的に軍を運用していたこと。
⚫︎領国経営にも力を入れ、安定した国づくりを行っていたこと。
それらに加え、江戸時代以降、『甲陽軍鑑』(こうようぐんかん)などによって名将としての評価が広まり、現在まで語り継がれていること。
こうした要素が重なり、武田信玄は「戦国最強」と称される代表的な武将の一人として知られるようになったようです。
とにかく強い
かなりの勝率の高さです。もちろんカウントの仕方によって左右しますので正確な数字は出せませんが、トップクラスの高さだったようです。
武田信玄は、現在の山梨県を中心とした小さな領地から出発し、多くの合戦で勝利を重ねて勢力を拡大しました。
小規模な戦闘・城攻め・局地戦のすべてを記録した同時代史料は残っていないのですが、一方で主要な戦については次のように整理できます。
1544年 海ノ口城の戦い 🟢勝利
1548年 上田原の戦い 🟢勝利(重臣に大損害)
1548年 塩尻峠の戦い 🟢勝利
1550年 砥石城の戦い ❌敗北
1551年 砥石城の戦い 🟢勝利(城を攻略)
1553年 第一次川中島の戦い 🔺引き分け
1555年 第二次川中島の戦い 🔺引き分け
1557年 第三次川中島の戦い 🔺引き分け
1561年 第四次川中島の戦い 🔺決着なし(双方大損害)
1564年 第五次川中島の戦い 🔺引き分け
1568年 駿河侵攻 🟢勝利
1569年 三増峠の戦い 🟢勝利
1569年 小田原城攻め 🔺城を落とせず撤退
1572年 二俣城の戦い 🟢勝利
1573年 三方ヶ原の戦い 🟢勝利
1573年 野田城の戦い 🟢勝利
【勝敗のまとめ(主要な戦)】
勝利:9
敗北:1
引き分け・決着なし:5
攻城失敗(撤退):1
勝率高ぁ!😳
海ノ口城の戦い
西暦1544年。このとき信玄(正確には晴信だけど、分かりやすいように信玄と表記します)は23歳(数え年)。
信玄は信濃国(現在の長野県)へ勢力を広げるため、平賀源心(ひらがげんしん)の守る海ノ口城を攻めます。
海ノ口城は山の地形を利用した守りの堅い城。武田軍はいったん兵を引きますが、その後、最終的に城を攻略することに成功しました。
なお、「退却したと見せかけて夜襲を仕掛け、一夜で城を落とした」という話がありますが、これは後世の軍記物によるものであり、史実として確認されていません。
が、何にせよこの勝利により、信玄は信濃攻略の足がかりを築き、若き武将として周囲から注目されるようになります。
砥石崩れ(砥石城の戦い、敗北)
若くして高い能力を周囲に認められた武田信玄(晴信)。もしかしたら天狗になっている部分があったのかも知れません。油断があったのかも知れません。
ここに来て、まさかの敗北を喫します。
西暦1550年。このとき武田信玄は28歳。
信玄は、信濃国の有力武将・村上義清(むらかみよしきよ)が守る砥石城を攻めます。
武田軍は城を包囲し、攻撃を開始。
しかし、村上軍は城から打って出て、武田軍を激しく攻撃します。武田軍は大混乱に陥り、多くの兵を失って撤退。
この敗戦は「砥石崩れ」と呼ばれ、武田信玄の生涯でも大きな敗北として知られています。
……あの武田信玄が大敗!?😳
と思われるかも知れませんが、信玄はここで終わりません。
翌1551年、武田方は砥石城を攻略。
この敗北と、その後の立て直しは、信玄を語るうえで外せないエピソードだと思います。
彼は開花したその戦の才能に、”経験” というものも加え、さらに進化していきます。
戦国最強・武田軍
武田信玄には、多くの優秀な家臣たちがおりました。
武田信繁
武田信繁(たけだのぶしげ)。武田信玄の実弟であり、「武田家の副将」ともいえる存在。知勇に優れ、信玄から厚い信頼を寄せられていました。
真田信繁(幸村)も、この武田信繁の名にあやかってつけられたとも言われます。
山本勘助
山本勘助(やまもとかんすけ)。武田信玄に仕えたとされる軍師で、戦略や築城などに優れていたと伝えられています。
ただし、その生涯には不明な点が多く、実在はほぼ確実と考えられている一方で、後世の創作が多く含まれている人物でもあります。
山県昌景
山県昌景(やまがたまさかげ)。武田四天王(四名臣)の一人に数えられる猛将として知られ、精鋭部隊「赤備え」を率いました。
その武勇と統率力は高く評価され、武田家を代表する名将の一人として現在も広く知られています。
馬場信春
馬場信春(ばばのぶはる)。彼もまた「武田四天王(四名臣)」の一人として知られ、冷静な判断力と優れた統率力を持ち、多くの合戦で武田軍を支えました。
同時代史料による裏付けはありませんが、「70回以上の戦に参戦し、最期の戦いまで傷を負わなかった」という逸話が有名です。
真田昌幸
真田昌幸(さなだまさゆき)。武田家の武将として数々の合戦に参戦。のちに真田家の当主となり、優れた知略で乱世を生き抜きます。
少ない兵力で大軍を翻弄する戦術に優れ、「表裏比興の者」(ひょうりひきょうのもの)と評されたことでも知られています。
これは「何を考えているか分からない、表と裏を使い分ける油断ならない人物」という意味ですが、単なる悪口ではなく、状況に応じて柔軟に立ち回る知略家という意味合いでもあります。
なお、真田信繁(幸村)の父親でもあります。
人心掌握の達人
武田信玄のもとに有能な家臣たちが集まったことにより、最強武田軍は形成されていったわけですが、それは信玄本人の人心掌握術が大きく影響していったと思われます。
1. 功績に応じて恩賞を与える
家臣の働きを評価し、領地や役職を与えることで忠誠心を高めました。
2. 有能な人材を積極的に登用
家柄だけでなく能力を重視し、敵方だった武将を家臣として迎えることもありました。
3. 家臣との信頼関係を重視
家臣に一方的に命令するだけでなく、相談や役割分担を行い、有力家臣に権限を与えていました。
4. 法による統治
分国法である『甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)』を整備し、家臣にも一定のルールを適用することで、不公平感を減らし組織を安定させました。
5. 「人は城、人は石垣、人は堀」
いくら優れた城があっても、いくら堅牢な石垣があっても、いくら深い堀があっても、そこを守っている将兵の士気が低ければ効力を十分に発揮できない。
そればかりか、裏切られては逆効果にさえなってしまう。
とても真理を表した言葉のように思えます。
とまぁ、これは信玄が言ったとされる言葉として有名ですが……
この言葉を信玄本人が述べたことを示す同時代の一次史料は確認されていません。
現在では、後世に成立した『甲陽軍鑑』などを通じて広まった可能性が高いと考えられています。
とは言え、彼だったらそう言いそうだなと思わせる何かがあったのかも知れません。
史料に基づいて特に評価されているのは、「功績を正当に評価すること」と「能力本位で人材を登用したこと」です。これらが武田家の強い組織づくりにつながったと考えられています。
そんなこんなで、上記でもご紹介した方々を含めた有能な家臣たちが武田信玄のもとに集っていきました。
宿敵!上杉謙信
戦国最強とも目される武田信玄は『甲斐の虎』の異名を持ちました。
が!そこに立ちはだかるは同じく戦国最強候補であり、『越後の龍』と呼ばれ恐れられた
上杉謙信(うえすぎけんしん)
純粋な戦術だけでいうのであれば、信玄よりも上ではなかろうかとも言われます。とにかく戦に強い!
先述しました武田信玄の戦歴にて、彼の勝率を著しく下げている5度の引き分けがあることに気づきましたでしょうか?
川中島の戦い。この対戦相手こそが上杉謙信なのです。
第一次〜第三次までは激しいぶつかり合いはなかったのですが、永禄4年(西暦1561年)
第四次川中島の戦いにて、ついに激突!
大激戦となりました。
この第四次川中島の戦いにより、信玄の弟・武田信繁や山本勘助といった重臣たちまでもが、戦場に散っていきました。
この戦い、有名なわりには詳しいことがわかっておらず、実態はかなり不明点の多い大混戦と見るのが無難なようです。
近年よく言われる見方は、武田軍と上杉軍が濃霧の中で接近し、意図した作戦というより、現場で大規模な遭遇戦・乱戦になったのではないかというものです。
結果としまして、武田・上杉 両軍に大きな損害を出しつつも、総合的には武田側の被害の方がやや大きく、また重臣が何人も討ち取られたのに対し上杉側の重臣は生き残りました。
しかしながら戦場となった北信濃は武田が支配することとなります。そういったことからこの戦い、
戦略的には武田信玄の勝ち
戦術的には上杉謙信の勝ち
といった見方をされることが多く、引き分けのような結果となりました。
なお余談ではありますが、創作作品において主人公と敵対する人物が悪役として描かれることは多々あるかと思います。
が、この上杉謙信、たとえ信玄が主人公の作品においても悪役仕立てで描かれるのを私は(あくまで私は)見たことがありません。
敵役として登場する場合においても、カリスマとして信玄に立ちはだかる印象です。
なんだか心地良いです。
とともに私の中では
信玄あっての謙信
謙信あっての信玄
といった感覚もどことなくあります。
はい、いかがだったでしょうか。
戦国最強候補・武田信玄の魅力、少しは伝わっておりましたら幸いであります😌
これは何度も書かせていただいたことかと思うのですが、大事なことなので今回も。
こういった戦国時代など私たちが直接感知していない領域のことを明らかにしていく作業というのは、どこか “真っ暗闇での探し物” みたいな部分があります。
新しい史料が見つかったからといって、それが本当かどうかを検証しないといけません。時には仮説の上に仮説を組み立てる、なんてことも起こります。
本当のことというのは、なかなか分からないものです。有名な専門家さんが「こうだ!」と言っても、後で間違っていたことが判明なんてことも普通にあります。
なので私は、
「こうゆう史料があります」
「こうゆう説があります」
「私はこう考えております」
でも!
「実際にはわかりませんよ」
というスタンスで歴史と向き合っております。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
【戦国パンダ部長】全種一覧
https://jaminism.hatenablog.com/entry/2024/08/15/143713
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戦国記事すべて置いてあります
感謝感謝でありますっ🥹✨



















「そうなんだよそうなんだよ」「え、そうだったの?」と息子が読んでおりました(笑)
あのパンダの記事読みたいとリクエストくるので、よほどジャミさんにハマっていると思われます(笑)😂
ジャミさん、武田信玄のわかりやすい紹介記事をありがとうございます✨
信玄が小さな領地からスタートして勢力を拡大していったプロセスや、有名な「砥石くずれ」の敗戦からすぐに城を攻略し直している粘り強さなど、短い時間で信玄の魅力がギュッと学べました。 歴史があまり詳しくない人でも楽しく読める構成ですね😊