戦国武将紹介 立花宗茂
生涯無敗!領民から慕われ敵からも応援されたツヨツヨ&いいひと武将?
立花宗茂(たちばなむねしげ)という武将さんをご存知でしょうか?
戦国系にご興味ない方には馴染みがないと思いますが、戦国ファンの間ではけっこう人気が高い印象です。
なんと彼は、生涯無敗!
彼が戦にて敗北したとする史料は1つも見つかっていないのです。
だからといってこれを史実として確定とまでは私は言い切れませんが、豊臣秀吉や徳川家康をはじめ、多くの武将から高く評価されていたことは、史料から確認できます。
今回は、そんな立花宗茂さんを、戦国初心者さんにも興味を持っていただけるよう書かせていただきます。
宗茂、誕生!
立花宗茂は永禄10年(1567年)、筑前国(現在の福岡県)に生まれました。
父は九州の戦国大名・高橋紹運(たかはしじょううん)。
……ん? 高橋?😳
立花宗茂なのに、お父さんは高橋さん?😳
はい、そうなんです。
実は宗茂さん、生まれたときは高橋姓でした。
その後、父・紹運とともに大友氏に仕えた名将・立花道雪(たちばなどうせつ)の養子となり、立花家を継ぐことになります。
つまり、
高橋家に生まれ、
立花家の跡取りとなった武将なのです。
父と義父の英才教育
養父となった立花道雪は、九州でも屈指の名将として知られています。
さらに実父の高橋紹運も、優れた武将として名高い人物でした。
宗茂は、この二人から武将としての教えを受けながら成長していきます。
まさに、
「名将が二人がかりで育てた武将」
だったと言えます。
もっとも、
道雪がどのような教育を行ったのか、宗茂が幼少期にどのような修行を積んだのかを具体的に記した同時代史料は、現在確認できません。
そのため、後世の書物に見られる幼少期の逸話については、史実かどうかを確認することはできません。
道雪には娘がおりました。名は誾千代(ぎんちよ)。
誾千代は父・道雪から家督を受け継ぎました。話は重複しますが、その後、宗茂は立花家の養子となって誾千代と結婚し、立花家を率いる武将となります。
九州最大のライバル現る
当時の九州では、薩摩国(現在の鹿児島県)を本拠とする島津氏が急速に勢力を広げていました。
宗茂、道雪、紹運は、大友氏の武将として島津軍と何度も戦うことになります。
天正14年(1586年)、島津軍は岩屋城を攻めました。激しい戦いの末、岩屋城は落城し、宗茂の父・紹運は討ち死にします。
同じ年、養父・立花道雪も病により亡くなります。
宗茂は20歳前後という若さで、立花家を率いることとなってしまうのでした。
父と師を相次いで失うも、それでも宗茂は戦場で活躍し、「立花家の当主」として頭角を現していきます。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉は九州平定のため大軍を率いて九州へ進軍しました。
宗茂は豊臣軍に加わり、その働きが高く評価されます。
そして天正15年(1587年)、筑後・柳川十三万二千石を与えられ、柳川城へ入りました。
宗茂は戦だけでなく領国経営にも力を注ぎます。
宗茂はその後も各地の戦いで武功を重ね、
「西国無双」
「西国一の猛将」
などと称えられるようになりました。
また、江戸時代初期の兵法家・柳生宗矩は『玉栄拾遺』の中で、宗茂を当代有数の武将として高く評価しています。
「西国最強」という肩書きそのものは、同時代の公式な称号ではありませんが、後世の評価として広く用いられている呼び名です。
朝鮮出兵でも活躍
文禄・慶長の役(朝鮮出兵)では、宗茂も出陣。前線で戦功を挙げたことは史料から確認できます。
また、この戦いで宗茂の指揮や武勇を高く評価する記録が、敵味方双方に残っています。
彼の武勇伝は後世に脚色されたものも含まれており、そのまま史実として断定することはできないものの、彼の強さを現代に伝えます。
天下分け目の決断
1598年、豊臣秀吉が亡くなると、豊臣政権では徳川家康と石田三成を中心に対立が深まっていきます。
やがて天下は東軍と西軍とに二分され、宗茂は石田三成らが率いる西軍に加わりました。
慶長5年(西暦1600年)、ついに天下分け目の大戦が起こります。
世にいう関ヶ原の戦い。
宗茂は西軍として大津城の戦いに参加します。
大津城は京へ向かう重要な拠点。宗茂ら西軍は激しい攻防の末、大津城を開城に追い込みます。
しかし、その間に関ヶ原本戦では西軍が敗北。宗茂自身は戦いに勝ったものの、大津城の戦いはあくまで局地戦。
本戦では負けたため、敗軍の将となります。柳川城を含む柳川の領地は没収され、大名の地位を失うこととなってしまいます。
その際、領民たちが道をふさいで
「お殿様、行かんといてください〜😭」
と、宗茂を引き止めたと伝えられています。宗茂が領民から深く慕われていたことを伝える逸話として知られています。
ゼロからの出発
多くの戦国武将は、一度改易(かいえき。大名や武士の身分・領地を取り上げられること)されると、そのまま歴史の表舞台から姿を消していきました。
改易された宗茂もまた、浪人として暮らすこととなり、そのまま一生を終えることに……なりませんでした。
敵として戦った徳川家康ですら、宗茂の才能を高く評価しており、やがて宗茂は徳川家に仕えることになります。
そして慶長11年(1606年)、陸奥国棚倉で1万石を与えられ、大名として復帰。
さらに元和6年(1620年)には、かつて治めていた筑後国柳川10万9千石へ返り咲いたのでした。
関ヶ原の戦いで敗れて領地を失った後、旧領へ復帰した唯一の大名として知られています。
家康も認めた武将
宗茂は徳川家康、徳川秀忠のもとでも重用されました。
大坂の陣では徳川方として出陣し、その後も幕府の有力大名として活躍します。
また、家康や秀忠から能力を高く評価されていたことは、複数の史料からうかがえます。
宗茂は柳川藩の藩政にも力を注ぎ、領国の整備を進めました。
そして寛永19年(1642年)、江戸の藩邸で亡くなります。
享年76。
その遺骸は柳川へ運ばれ、人々に惜しまれながら葬られました。
立花宗茂は、数々の戦場を駆け抜け、豊臣秀吉、徳川家康の時代を生き抜いた名将でした。
「西国無双」と称えられるほど武勇を高く評価され、一度は大名の地位を失いながらも、再び柳川藩主へ返り咲くという、戦国時代でも非常に珍しい人生を歩みました。
一方で、宗茂にまつわる逸話の中には、後世の軍記物や講談によって広まったものも少なくありません。
それでも私は、彼の
⚫︎生涯無敗の強さ
⚫︎領民から慕われる善政
⚫︎敵からも応援される誠実さ
といった数々の魅力を感じてやみません。
戦国時代や戦国武将に限らず、私たちは過去に起こったエピソードや人物の話をあれこれと耳にします。
しかしそれらは史料にもとづいた話とも限りません。また、史料に書かれてるからといってそれが本当とも限りません。
私の歴史記事内ではたびたび「一次史料」というワードが出てきます。
そもそも、一次史料って何?🥹
って方もおられるかも知れませんね。
一次史料とは、その出来事が起きた時代に作られた史料のことです。戦国時代なら、武将本人が書いた手紙(書状)や公文書、当時の日記などがこれにあたります。
一方、江戸時代に書かれた武将伝や軍記物、現代の歴史本、Wikipediaなどは一次史料ではありません。
歴史のことを書く場合は、一次史料で確認できることを最優先する傾向があります。
そりゃぁ当時の史料だもんね😆
信用できるよね😆
……と、思われる方もおられるかも知れませんが、そうとも限りません🫷
え!?😳
なんで?😳
その時の情報が一番信用できるでしょ??😳
と思われる方もおられるかも知れませんが、戦いなどエピソードの渦中は混乱していたり情報が錯綜している可能性だってあります。
しばらく経ってから情報が集まり、全体像が把握でき、それを書き記した史料は、たとえリアルタイムでなかったとしても一次史料よりも正確である可能性だってあるのです。
また、口伝・伝承は信憑性が低いとされますが、言い伝えだからと言ってそれが間違っているとも限りません。
なので私は、
「こうゆう史料があります」
「こうゆう説があります」
「私はこう考えております」
でも!
「実際にはわかりませんよ」
というスタンスで歴史と向き合っております。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
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ジャミさんのおかげで、また新たな武将を知ることができました😊
20歳で立花家を背負うなんて、本当にタフな人生ですよね。
そんな若さで家をまとめる中、どんな家臣たちが支え、どうやって苦境を乗り越えて、その後の活躍につながっていったのか…。そこもすごく気になります🐽
ジャミさん、立花さんは、人から愛されて喧嘩が強いってイメージを持ちました!全然知らない武将さんですが、慕われた人だったのかなって✨
強さこそが正義と思われがちな戦国で、こうやって人徳のような話があるのは、現代と変わらないのかなぁって思います😊