戦国武将紹介 伊達政宗
もう少し早く生まれていれば天下を獲ったかも知れない戦国武将
「もう少し早く生まれていれば
天下を獲っていたかもしれない」
そう言われている戦国武将さんがおられます。それは
伊達政宗(だてまさむね)
おそらく戦国に興味のない方でも、名前ぐらいは聞いたことがあるかも知れません。また、そのビジュアルもどこかで見たことがあるかも知れません。
隻眼、三日月、黒い甲冑
(私も伊達政宗さんの甲冑つくっちゃいました)
伊達政宗は東北を代表する戦国武将であり、仙台を築いた人物でもあります。
彼を戦国初心者さん向けに一言でいうと
「戦で領地を広げるだけでなく、新しい都市を築き、海外との交流にも挑戦した戦国武将」
伊達政宗のすごいところをざっと簡単に書き出しますと、こう!
↓ ↓ ↓ ↓
① 東北を代表する戦国大名
② 仙台という都市を築いた
③ 海外との交流に挑戦した
伊達政宗と聞くと、ガンガン戦をし、ときに残酷な武将さんというイメージがあるかも知れません。
上記でいうと、①の部分ですね。たしかにそうゆう部分はあるのかも知れません。
が、それだけではないのです。
そして、現代でも人気が高い理由としまして
歴史上の功績に加え、
NHKの大河ドラマ『独眼竜政宗』や、
『戦国BASARA』『戦国無双』
などの作品によって、世代を超えて親しまれていることが挙げられます。
梵天丸、誕生!
伊達政宗は1567年、米沢城で生まれました。幼名は梵天丸(ぼんてんまる)。父は伊達輝宗(てるむね)、母は義姫(よしひめ)です。幼いころ天然痘で右眼を失明してしまいます。
1577年、11歳で元服し「政宗」と名乗ります。1579年には愛姫(めごひめ)と結婚し、1581年、15歳で初陣(ういじん)、つまり生まれて初めての戦を迎えます。
15歳!?💦
スゴッ😵
って感じですが、これ現在の満年齢でいうと13〜14歳ということになります。
スゴゴゴゴッ😵😵😵
ん?その前に……結婚してますね〜😳
なんとこのとき13歳。現在の満年齢でいうと11〜12歳となります。
The!政略結婚っ🥹
当時は有利な状況をつくるため、政略結婚がよく行われておりました。この政略結婚も初陣も、政宗さんの場合だと現代の小学生で結婚し、中学生で初めて戦に出たことになりますね。過酷な時代です。
父・輝宗、騙し討ちにて死す
1584年、18歳で父から家督を譲られ、伊達家の当主となります。
翌1585年、二本松城主の畠山義継(はたけやまよしつぐ。二本松義継とも)は、政宗との対立で追い詰められていました。
和睦を願い出た畠山義継を信じた父・伊達輝宗は、その帰路で人質として連れ去られてしまいます。
18歳の政宗は父を救うため追撃しますが、激しい戦いの末、輝宗は命を落としました。
人質として盾にされた輝宗は戸惑う政宗に
「構うな!オレごと撃て!」
と叫び、父の覚悟に応えた政宗は攻撃を命じ、戦いの末、義継とともに輝宗も命を落とします。
この場面は、「父は我が子よりも伊達家の未来を選び、息子は父の覚悟を受け入れた」という親子の悲劇として、小説や講談、ドラマなどで繰り返し描かれてきました。
が😝
この「自分ごと撃て」という言葉や、そのやり取りを裏付ける同時代の一次史料は確認されていません。
そのため、現在の歴史研究では史実ではなく、後世に成立した逸話として紹介されるのが一般的です。
激戦!人取橋の戦い
政宗は、父の敵討ちのため畠山氏討伐に出陣するも、畠山氏を救うため、蘆名義広(あしなよしひろ)、佐竹義重(さたけよししげ)ら南奥州の有力大名が連合軍を結成。人取橋にて激突します。
世に言う、人取橋の戦いです。若き政宗が率いる伊達軍は兵力で劣り、苦戦します。
総大将・政宗は圧倒的な数の敵軍に圧し込まれ、危機に陥ります。
もはやこれまでか!?
と思われた次の瞬間、戦場に叫び声が轟きます。
「怯むな小十郎ーーー!!!この政宗がついておるぞーーー!!!!」
なんと、味方の武将が政宗をかばうために自分が囮となったのでした。敵兵は標的を政宗から外し、この武将へと向けたことで彼は絶体絶命の危機を脱します。
主君の危機を救ったこの武将の名は、
片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)。
諱(いみな)は景綱(かげつな)。
片倉景綱。
彼は、伊達政宗を生涯支え続けた家臣で、「知勇兼備」の名将として知られています。
若い政宗の教育係を務め、参謀として、右腕として活躍しました。
政宗の約10歳年上だった小十郎は、政宗にとって兄のような存在だったのかも知れません。
片倉小十郎の機転もあってなんとか命拾いした政宗ではありましたが、戦況は圧倒的に不利なまま。伊達軍の劣勢は決定的となり、多くの兵が退き始めます。
しかし、主君・政宗がなお戦場に残っていることを知ると、
「殿が戦っておられるのに、家臣の私が逃げ帰れるものか!」
と言い放ち、わずかな兵を率いて再び戦場へ引き返した武将がおりました。
彼の名は、伊達成実(しげざね)。
戦場へと舞い戻った成実は大奮戦!
圧倒的な数の差をものともせず、暴れに暴れます。そのおかげで政宗の活路が開けていきます。
彼こそは伊達軍屈指の猛将であり、若き政宗を支えた重臣の一人だったのです。
伊達成実の奮戦もあり、なんとか死地を抜けつつあった政宗ではありましたが、敵の勢いは止められず凄まじい追撃が押し寄せます。
若き政宗を生かさなければ、伊達家に未来はない。
そう判断したある老将は、自ら殿(しんがり)、つまり撤退する際の最後尾で敵を喰い止める最も危険な役回りを買って出ると、
「殿、お急ぎくだされ。この老骨、まだまだ敵を引き受けられます。」
と告げる。
逡巡する政宗を激励し見送ると、老将はわずかな兵とともに敵の大軍へ突撃していきました。
彼の名は鬼庭良直(おににわよしなお)。
人呼んで、左月斎(さげつさい)。鬼庭左月。
鬼庭左月(良直)は、伊達家に長年仕えた重臣であり、政宗の父・輝宗の代から活躍した武将です。
若き政宗を支えた家臣団の中では最年長格で、その経験と武勇から厚い信頼を集めていました。
そして彼は、この人取橋の戦いにて政宗を守るため最期まで戦い抜き、散っていきました。
とまぁ、
そんなカッコ良い話が伝わってはおりますが、恒例の時間です😛
史実とフィクションは分けて考えましょうタイムでっす😝
結果からお伝えしますと、これらの話を同時代の一次史料で確認することはできません。
現在では、後世に成立した逸話として紹介されるのが一般的です。
片倉小十郎が例のセリフを言ったという史料は残っておりませんし、成実がこの戦いで大きな武功を挙げたこと自体は広く認められておりますが、引き返して戦場へと舞い戻ったということは確認できません。
鬼庭左月が人取橋の戦いで戦死したことは史実である一方で、
「政宗を逃がすため、自ら進んで殿を買って出た」
という場面の詳細な描写は、後世の軍記物などで脚色された可能性があり、そのやり取りまでを同時代史料で確認することはできません。
ではあるのですが、史実は史実として受け止め、フィクションはフィクションで楽しむのが大事なのだと私は考えております😌
なんにせよ若き政宗はこの苦戦を乗り越え、約4年後の摺上原(すりあげはら)の戦いで蘆名氏を破り、東北最大級の勢力へと成長します。
人取橋の戦いは、彼が「試練の中で本物の戦国大名へ成長していく出発点」といえる戦いだったのかも知れません。
井の中の蛙、大海を知っちゃう
イケイケの政宗さんではありましたが、そこに立ちはだかったのが豊臣秀吉(とよとみひでよし)。
最初は
「ひでよしぃ?🥴知らねーな😤」
といった感じだったかも知れませんが、やがて自分より遥かに強い存在だと知り、屈服することとなります。
豊臣秀吉は1598年に没するも、今度は次の天下を狙っていた(かも知れない。ホントのところは不明)徳川家康(とくがわいえやす)が存在感を出してきます。
西暦1600年の関ヶ原の戦いでは徳川家康方につき、上杉方の白石城を攻め取り、最上義光(もがみよしあき。よしみつじゃないからネ)への援軍も送りました。
天下を狙うギラギラとしたイメージで語られることのある政宗さんですが、やはり自分より遥かに強い存在には敵いません。
豊臣政権のもと、そのあとは徳川政権のもと存続することとなります。
秀吉・家康への臣従後も一貫して天下を狙い続けたことを示す確実な史料はありません。そのため、「生涯ギラギラした野心家」というより、状況に応じて目標を現実的に切り替えた人物として評価する声が近年は多いような印象です。
政宗さん、海外に目を向ける
1613年には、家臣の支倉常長を中心とする慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)を派遣します。使節は海を渡り、スペイン・ローマへ向かいました。
支倉常長(はせくらつねなが)。彼はスペイン国王フェリペ3世、さらにローマ教皇パウルス5世に謁見しました。
当時、日本からヨーロッパまで往復すること自体が前例の少ない大事業でした。
しかしながら、常長がヨーロッパに滞在している間、日本では徳川幕府がキリスト教への取り締まりを強め、結果としてこのプロジェクトそのものは頓挫することとなります。
とは言え、政宗が
「実際に国家規模の国際プロジェクトを実行した」
という点は特筆すべきことだと思います。
戦国大名の中には海外との交易に関心を持つ者はいましたが、政宗は構想で終わらせることなく、実際に実行したことは素直にすごいことだと感じずにはいられません。
言うだけなら誰にでもできる。
実際に行動に移せるかどうかが、次のステージへ移行できるかどうかの分岐点となりますね。
西暦1636年6月27日(寛永13年5月24日)、伊達政宗はで69歳(数え年70歳)で亡くなりました。
政宗は亡くなる前、自らの葬儀は質素に行うよう命じたと伝えられています。
また遺言により、遺体は仙台へ運ばれ、現在の瑞鳳殿(ずいほうでん)の地に葬られました。現在の建物は戦後に再建されたものですが、政宗の霊廟として多くの人が訪れています。
彼は天下を獲れたのか?
サブタイトルにも書きましたが
彼はときに、もう少し早く生まれていれば天下を獲ったかも知れないと言われることがあります。
が、個人的には
さすがにそこまで超突出して優秀だったわけではないのでは?と考えております。
彼が生まれる少し前は武田信玄・上杉謙信・北条氏康といった強豪たちがひしめいており、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康といった三英傑ほど京に近い位置に本領があったわけでもありません。
そもそも織田信長が天下(= 畿内。きない。つまり京都を含むその周辺)を支配でき、その流れで天下(= 日ノ本全土)を射程距離に収めることができたきっかけは、時の将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の補佐役になれたからであろうし、その流れの中で豊臣秀吉と徳川家康の天下統一が成立したのです。
京から遠いということ一つとっても、天下統一を成す上でどれほどネックになることか。また、将軍の補佐役になれたかどうかなど、ほとんど運の要素が強い。
政宗が生きた69年間は、日本の歴史が大きく変わった時代でした。
⚫︎織田信長による天下統一への動き。
⚫︎豊臣秀吉による天下統一。
⚫︎徳川家康による江戸幕府の成立。
政宗自身は天下人にはなりませんでしたが、激動の戦国時代を生き抜き、伊達家を存続させ、仙台藩の礎を築きました。
今回の伊達政宗さんも、よく聞く話が実はフィクションだった可能性が高いということも書かせていただきました。
こういった歴史は、新しい史料の発見や研究が進むことによって、それまでの通説が覆るなんてことがよく起こります。
なので私は、
「こうゆう史料があります」
「こうゆう説があります」
「私はこう考えております」
でも!
「実際にはわかりませんよ」
というスタンスで歴史と向き合っております。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
【戦国パンダ部長】全種一覧
https://jaminism.hatenablog.com/entry/2024/08/15/143713
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戦国記事すべて置いてあります
いつもありがとうございます😌
重ね重ね、お礼申し上げます✨
ずんだ!😆✨




















若くして、ことを成し遂げようと戦!その前に結婚までしてる。
昔は大人になるのが早い^^;(>_<)^^;
あぶない!
後で読もうと思ってて、忘れてしまうところだった💦
戦国BASARA懐かしい!から始まり、伊達政宗のストーリーをふむふむと読み進める。
そして、実は…と史実の解説。
あー面白かった!!!
ジャミさんの記事で、自分の知っている大名のイメージがガラッと変わります😊😊😊
次回も楽しみにしています🐽💨