戦国武将紹介 藤堂高虎
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藤堂高虎(とうどうたかとら)という武将さんをご存知でしょうか?
主君を何度も変えたことにより、批判的に語られてきた過去があります。
「武士たるもの、一人の主・一つの家に仕えるべき。主君を何度も変えるとは何事ぞ!」
てな感じで。
しかしながら、そんなことを言われていたのは江戸時代。徳川家・江戸幕府が支配する時代。200年以上にもわたるこの期間は、
「お上、つまり主君、つまり徳川家に逆らうことは悪いこと」
と刷り込みたい期間だったとも言えます。支配者層に異を唱え、反乱でも起こされたら秩序が乱れますもんね。
その価値観で語られた話が、昭和・平成まで引っ張ってこられたわけです。
でも……
でもですね、戦国時代はそんな価値観でもなかったのです。もちろん一人の主人・一つの家に忠義を尽くしてきた方々、それが良きことと信じて生き抜いた方々もおられたことでしょう。
しかしながら、「仕えるに値する主でなければ離れる」という価値観もまた普通にあったようです。
なのでこの藤堂高虎さん、当時の価値観でいっても悪評たてられるような生き方ではなかったというのが、今の主流な見方のように思われます。
むしろ、自身の能力を存分に発揮でき、相応に報いてくれる人についたからこそ、大きな結果を残すこととなりました。
今回は、そんな藤堂高虎さんを戦国初心者さんにも興味を持ってもらえるよう書かせていただきます。
高虎、誕生!
藤堂高虎は弘治2年(西暦1556年)、近江国(現在の滋賀県)に生まれました。
父の名前は、藤堂虎高(とらたか)。
……ん?😳
藤堂虎高(とらたか)?😳
虎高ぁ〜〜!!?Σ(゚д゚lll)
「高」と「虎」、ひっくり返しただけやんけ!?( ;´Д`)
はい、そうなんです。高虎さんのお父上は虎高さんなのです。
高虎は15歳で浅井長政(あざいながまさ)に仕えました。そして初陣!
西暦1570年、姉川の戦い。
が、この戦いは敗北し、やがて浅井氏は滅亡してしまいます。
その後、阿閉氏、磯野氏、織田氏に仕えますが、いずれも短期間でありました。
⚫︎ 浅井長政 約3年
⚫︎ 阿閉貞征 数か月程度?(詳細不明)
⚫︎ 磯野員昌 約3年
⚫︎ 織田信澄 ごく短期間?(詳細不明)
そして、
豊臣秀吉の弟・豊臣秀長(とよとみひでなが)の家臣となります。
この秀長との出会いが、高虎の人生における大きな転機となりました。
巡り合わせ
秀長は高虎の働きを高く評価し、戦のたびに重用しました。高虎は中国攻め、紀州攻め、四国攻め、九州攻めなど、秀吉の天下統一事業を支える各地の戦いで武功を重ねていきます。
知行(ちぎょう。与えられた土地、またはそこから得られる収入)も300石(こく)から3,000石、さらに1万石、2万石へと加増されていきます。これは、実力がそのまま評価につながったことを示しています。
ようやくです。
よくやくここまできました、高虎さん。
結果を出しても報酬がなかったり、活躍の機会が得られない環境では、どれだけ頑張っても報われません。
良き人に、良き場に巡り合うことができましたね。
ちなみに、よく聞く石高(こくだか)って何でしょう?
上記でも、石と書いて「こく」と読む字が出てきましたね。
石(こく)は、お米の量を表す単位です。
1石は約180リットル(玄米約150kg)で、大人1人が約1年間に食べる米の量の目安とされています。
戦国時代には、武士の収入や領地の豊かさを表す基準として使われました。
強い!そしてデカい!
彼は何度も戦に出向き、繰り返し戦功によって加増と重用を受け続けます。かなり戦に強かったことがうかがえます。
そしてなんと!
彼の身長は約190cm(六尺二寸前後)あったと伝えられています。
で、でかい!Σ(゚д゚lll)
当時の男性の平均身長が155〜160cmとされるなか、190cmというズバ抜けた数値!
若い頃の高虎はまだ一兵卒から身を立てていく立場であり、戦功によって評価され、知行を増やしていきました。
津市の資料でも、高虎は「勇猛果敢」で、「多くの合戦で顕著な戦功を挙げた」とされています。
残念ながら約190cmという身長は、後世の史料・伝承に基づく数値であり、実測記録ではないものの、相当大柄な人物であったと推測されます。
強い!だけじゃない!🏯
彼は戦に強かっただけでなく、城づくりにも優れた才能を発揮しました。
高虎が築城や改修に関わったとされる城には、
今治城(愛媛県)
宇和島城(愛媛県)
伊賀上野城(三重県)
津城(三重県)
などがあります。
また、江戸城や大坂城の普請(ふしん。土木工事や建築工事)にも関わったことが史料から確認されています。
当時の城は、敵の攻撃から身を守るための軍事施設であると同時に、大名の政治の中心でもありました。
高虎は、石垣や堀を効果的に配置し、防御力を高めるだけでなく、城下町も含めた全体の設計に優れていたと評価されています。
また、瀬戸内海に面した今治城では海水を堀へ引き込む構造を採用するなど、立地を生かした築城でも知られています。
秀長さん、世を去る
1591年、長年仕えた大恩人である豊臣秀長が病で亡くなってしまいます。
高虎は秀長の養子・豊臣秀保(ひでやす)に仕え、その後見役として主家を支えました。
が、その秀保までもが17歳で急逝してしまいます。高虎は深い悲しみから高野山で出家してしまいます。
このときの高虎さんの心境はいかばかりか……
その後、豊臣秀吉は高虎の才能を惜しみ、還俗(げんぞく。僧侶をやめて武士に戻ること)を命じます。
高虎はこれに応じて武士に戻り、伊予国板島7万石を与えられ、一国一城の大名となりました。
その後も秀吉のもとで朝鮮出兵に参加し、豊臣政権を支える武将として活躍します。
しかし……
1598年、その秀吉までもが亡くなり、高虎の人生はまたも大きな転機を迎えることになります。
次のステージへ
秀吉が亡くなると、豊臣政権では有力大名たちの対立が深まっていきました。
藤堂高虎は情勢を見極める中で、徳川家康に接近します。
そして1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に加わり、家康方として戦いました。
高虎は戦場で戦うだけでなく、諸大名との連絡や調略にも携わり、東軍の勝利に貢献したとされています。その功績により、戦後は伊予今治20万石を与えられました。
その後も家康の信頼は厚く、大坂城や江戸城の普請(工事)をはじめ、多くの築城を任されます。築城技術に優れた高虎は、幕府の重要な土木・建築事業を担う存在となりました。
さらに1608年には伊勢津32万石へ加増され、伊勢津藩の初代藩主となります。
以後は徳川家康、徳川秀忠、徳川家光の三代に仕え、江戸幕府を支える有力大名として活躍しました。
1630年(寛永7年)、江戸の藤堂藩邸で75歳で亡くなりました。
若き日に一兵卒として戦場に立った高虎は、数々の戦功を重ね、築城の名人としても名を残し、江戸幕府を支える有力大名へと成長しました。
その波乱に満ちた生涯は、戦国時代を代表する立身出世の物語の一つといえるのではないでしょうか。
彼は何度も主君を変えました。以下がそれぞれの仕えた長さとなります。
浅井長政 1570年~1573年ごろ(約3年)
磯野員昌 1573年~1576年ごろ(約3年)
羽柴秀長 1576年~1591年(約15年)
豊臣秀保 1591年~1595年(約4年)
豊臣秀吉 1595年ごろ~1598年(約3年)
徳川家康 1598年ごろ~1616年(約18年)
阿閉貞征(あつじさだゆき)と織田信澄(おだのぶずみ)に仕えたという経歴は後世史料に見られますが、在仕期間を正確に確定できません。仕えていたとしても、ごく短期間だったとみられます。
また、津市の略年譜では、1573年に磯野員昌(いそのかずまさ)へ仕え、1576年に磯野家を出奔(しゅっぽん)して秀長へ仕えたとされ、阿閉貞征・織田信澄は記載されていません。
価値観は時代によって変わります。
そのとき誰が影響力が大きかったのか?などによって、良きように語られたり、逆に悪しきように語られたりもします。
何が本当か分かったものではありません。
なので私は、
「こうゆう史料があります」
「こうゆう説があります」
「私はこう考えております」
でも!
「実際にはわかりませんよ」
というスタンスで歴史と向き合っております。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
【戦国パンダ部長】全種一覧
https://jaminism.hatenablog.com/entry/2024/08/15/143713
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御伽衆の話はないのか…
ジャミさん✨こんばんは!
主君を変えていく戦略と読み始めたら、予想以上に変えまくっておられましたね。
75歳の生涯も、当時じゃだいぶご長寿。
一途に一人だけとか一つのことだけとか、それもいいですが、たくさんの方や居場所と絆を結ぶのみまた豊かだと思いました!
ありがとうございます🍀😊