戦国武将紹介 北条氏康
信玄・謙信をも撃退した相模の獅子
前回・前々回の記事にて、戦国最強候補である武田信玄・上杉謙信をご紹介しました。両者ともに強く、戦にて高い勝率を誇りました。
が!
その信玄・謙信をも撃退した戦国武将がおりました。彼こそは
北条氏康(ほうじょううじやす)
武田信玄は『甲斐の虎』🐯
上杉謙信が『越後の龍』🐲
ならば、
北条氏康は『相模の獅子』🦁
でありました。
越後の龍、撃退!
永禄4年(西暦1561年)
越後の名将・上杉謙信(当時は長尾景虎)は、大軍を率いて北条氏康の本拠・小田原城(おだわらじょう)へ攻め込んだ。
しかし、氏康はあえて城の外で戦わず、堅固な小田原城に籠城する。兵糧も十分に備えていたため、上杉軍は城をなかなか攻め落とせなかった。
約1か月に及ぶ包囲の末、謙信は攻略を断念して撤退。こうして北条氏康は、本拠・小田原城を守り抜き、戦国最強クラスの名将・上杉謙信を退けることに成功しました。
甲斐の虎、撃退!
永禄12年(西暦1569年)
甲斐の名将・武田信玄は、大軍を率いて北条氏康の本拠・小田原城へ攻め込みます。
しかし、氏康は城の外で決戦をせず、堅固な小田原城に籠城する。信玄は城を攻め落とせないまま撤退を開始した。
その帰路、北条軍は現在の神奈川県相模原市にある三増峠で武田軍を迎え撃つ。激しい戦いの末、武田軍は甲斐へ引き返し、北条氏康は本拠を守り抜くことに成功しました。
なんと、氏康は戦国最強と名高い謙信・信玄を撃退してしまったのです。
難攻不落!小田原城
このように北条氏康の強さは、小田原城とも大きく関わっていました。
小田原城は戦国時代を代表する堅城であり、広大な城下町までを防御に取り込んだ大規模な城だった。
その高い防御力と十分な備えにより、上杉謙信や武田信玄といった名将の攻撃にも耐え抜いたのである。
北条氏康は、この堅固な小田原城を最大限に活かし、無理に城外で決戦を挑まず、敵の勢いを受け止めて退ける戦い方を選んだ。
難攻不落といわれた小田原城は、北条氏の繁栄を支えた最大の拠点であり、氏康の強さを語るうえで欠かせない存在でありました。
強いだけじゃない!良き統治者
北条氏康は、戦が強いだけの武将ではありませんでした。実は、領民の暮らしを大切にした名君としても高く評価されております。
当時は戦乱の世でしたが、氏康は領内の決まりを整え、商売がしやすい環境をつくるなど、人々が安心して暮らせる国づくりを進めました。そのため、北条氏の領地は「暮らしやすく豊かな国」として発展していきます。
強さだけでなく、人々の生活にも目を向けたこと。それこそが、北条氏康が名君といわれる理由なのである。
でも、知りませんでしたよね?この方🥹
そんなこんなで名君であり、個人的には戦国最強候補の一人として名を挙げても良いと思う北条氏康さん。
ですが、ぶっちゃけ……
戦国ファン以外の方からしてみたら、
「……どちら様?😦」
ってな感じですよね🥹
しょうがない。
これはしょうがないんです。
戦国武将に興味がない方からしてみたら、かろうじて三英傑(さんえいけつ)の名前を聞いたことあるかな?ってぐらいだと思うのです。
三英傑とは、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人。この3人は長きにわたる戦国時代に、天下統一への流れを作りました。もし仮に戦国時代に “主軸” があるのだとすれば、この3人こそが選ばれるのではないでしょうか。
しかしながら北条氏康は、ほとんどこの3人との絡みがありません。謙信や信玄を退けたことも、主軸には分かりやすい影響はなく、「良き統治者なんです」と言ったところで、「……はぁ😦」といった感じでしょう。
加えて
インパクトのあるエピソードが少ない😭
ないわけではないんです!
河越夜戦(かわごえよいくさ、もしくは、かわごえやせん)がまさにそれ。日本三大奇襲に数えられる戦いで、なんと10倍もの敵に勝利しています。
す、すごすぎる!!!ってな感じですが・・・ じつはこの河越夜戦、分かっていないことも多く「じつは大規模な戦闘はなかったのではなかろうか?」といった意見もあります。史料があまり多くなく、実態が不明瞭なのです。
なので、戦国ファン以外からの知名度の低さは否めません🥹
す、凄いんだからねっ、氏康さん🥹
後北条氏とは?
北条氏康を語るにあたり、後北条氏(ごほうじょうし)という呼び方もお伝えしたく思います。まぁ、超超超簡単に略しに略して言いますと、氏康さんたちの一族のことです。彼らは100年にわたって関東を治めた戦国大名であります。
初代・北条早雲(そううん)が伊豆を手に入れたことから勢力を広げ、小田原城を本拠として関東最大級の勢力へと成長。
「北条」と名乗っておりますが、鎌倉時代に執権として活躍した北条氏とは直接の血縁ではありません。
二代目の北条氏綱(うじつな)が、関東支配の正統性を示すために「北条」の姓を名乗るようになったのです。
……ん?
……なったのです。……ん?😳
関東支配の正統性を示すために「北条」の姓を名乗るようになったのです。😳
勝手に名乗ったの!??Σ(゚д゚lll)
鎌倉時代の北条さんのネームバリューが欲しくて😨
じゃぁ関係ないやん!!?Σ(゚д゚lll)
そうなんです。ネームバリュー欲しさに勝手に北条と名乗り出したのです。元々の姓は伊勢(いせ)。伊勢氏なのです、本来は。
で、後世の人々が区別するため「後北条氏」と呼ぶようになりました。
それ……ええの!!?🥹
北条氏康を支えた者たち
北条綱成
北条綱成(つなしげ)。屈指の猛将として知られた武将。「地黄八幡(じきはちまん)」の異名を持ち、後北条氏を代表する武将として名を残している。
黄色の旗や鎧を身に着け、「八幡大菩薩」と書かれた旗印を掲げて戦ったことから、「地黄八幡」と呼ばれるようになった。
北条氏康から厚い信頼を受け、数々の戦で先陣を務めるなど活躍し現在も高く評価されています。
風魔小太郎
風魔小太郎(ふうまこたろう)は、後北条氏に仕えた忍者集団「風魔党」を率いた頭領として知られる人物である。その名は戦国時代を代表する忍者として、現在まで語り継がれている。
風魔党は、敵の情報を集める偵察や奇襲、夜襲などを得意とし、後北条氏の戦いを陰で支えたとされている。
ただし、風魔小太郎については謎が多く、名前を代々受け継いだ頭領だったという説もある。そのため、小説や映画などで描かれる超人的な活躍の多くは創作であり、史実として確認できることは限られている。
なお、当時は忍者という呼び名ではなかった。
北条氏政
北条氏政(うじまさ)は、北条氏康の嫡男であり、後北条氏の四代当主である。父・氏康の跡を継ぎ、広大な領国を治めた。
氏政は、父から受け継いだ領国を守りながら、後北条氏の勢力を維持した。家臣団をまとめ、領国経営にも力を注ぎ、関東有数の大名として後北条氏を支えていました。
北条氏康は、戦で数々の功績を残しただけでなく、領国の整備や家臣団の統率にも力を注ぎ、後北条氏の全盛期を築きました。
晩年には、長年争ってきた武田信玄と同盟を結ぶなど、戦いだけでなく外交によっても領国の安定を図っている。
そして永禄14年(西暦1571年)、氏康は病に倒れ、小田原城でその生涯を終えた。死因の詳しい記録は残されていないが、病死と伝えられている。
享年56歳。
はい、いかがだったでしょう。
戦国最強候補・北条氏康の魅力、少しは伝わっておりましたら幸いであります😌
日本三大奇襲というものがあります。桶狭間の戦い、厳島の戦い、そして今回の記事でも触れました河越夜戦のことです。
先述しました通りこの戦いは不明点が多く、河越城周辺で繰り返された複数の戦闘が、後世に一つの合戦としてまとめられた可能性や、河越城の包囲はあったものの、大規模な野戦自体は行われなかった可能性を指摘する説まであります。
結局のところ、よく分かっていないのです。歴史の本はたくさんありますし、解説動画もたくさんありますが、そうゆう部分が多いのが実情です。
なので私は、
「こうゆう史料があります」
「こうゆう説があります」
「私はこう考えております」
でも!
「実際にはわかりませんよ」
というスタンスで歴史と向き合っております。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
【戦国パンダ部長】全種一覧
https://jaminism.hatenablog.com/entry/2024/08/15/143713
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いつもありがとうございます😌
重ね重ね、お礼申し上げます✨



















二代目の北条氏綱(うじつな)が、関東支配の正統性を示すために「北条」の姓を名乗るようになったのです。
↓
長年の疑問が解けました。ずっとずっと鎌倉時代の北條家の末裔だと思っていたんです。面白かったです!次回も楽しみにしています☺️
ジャミさん
北条氏康…知らなかったです。
そして小田原城にいたとは。
本当に面白ろかった!
次回作も、待ってます🐽🙌