簡単戦国解説
まずは信長・秀吉・家康を学ぼう!
このコーナーでは戦国初心者さんに向けての簡単戦国解説を書かせていただいております。戦国時代や戦国武将さんに詳しくないという方にも、分かりやすくお伝えできるよう心がけました。
出回っている文章情報よりふりがなを少し多めに記載しております。「それぐらい読めるよ!」って方も暖かく見ていただけると幸いです。
「戦国時代に興味はある!でも、どこからどう勉強すればいいのか分からない。」
という声を耳にしたことがあります。
分かります。
それ、分かります。
戦国時代ってめちゃくちゃ多くのエピソードがありますし登場人物も無数にいます。
基本的にご自身の好きなところから学んでいけばいいとは思いますが、効率よく学びたいというのであればまずは三英傑(さんえいけつ)から学ぶことをオススメします。
つまり、織田信長(おだのぶなが)・豊臣秀吉(とよとみひでよし)・徳川家康(とくがわいえやす)の三人。
戦国時代の後期に登場し、群雄割拠となった日本にふたたび統一の流れをつくっていった三人です。この三人を学ぶことで戦国時代の主軸(後半ではありますが)を知っていくことができます。
まずは超超超簡単に三英傑の活躍を書いておきます。最低限これだけでも覚えておけば大枠はなんとなく理解したと言ってよいでしょう。
●室町時代末期、応仁の乱勃発!戦国時代に突入!無政府状態のまま70年ぐらい続く。
●織田信長登場!天下統一の流れが始まる。が、本能寺の変にて命を落とす。
●豊臣秀吉が天下統一!が、彼がこの世を去り再び乱世へ。
●徳川家康が江戸幕府を開き、豊臣を滅ぼして戦国時代が終わる。
以上!
以上です。
これだけ覚えておけばとりあえずはOKです。何がOKか分かりませんが、とりあえず大枠はこんな感じです。とにかく
織田信長の天下布武(てんかふぶ)
豊臣秀吉の天下統一(てんかとういつ)
徳川家康の天下泰平(てんかたいへい)
この3つがキーワードです。
では次に、もう少しだけ詳しくお三方の足跡を書いていこうかと思います。
《織田信長の天下布武》
織田信長にまつわる誤解
かつては『戦国時代の革命児』であったり『恐怖の第六天魔王』といった感じで語られることの多かった信長さんですが、研究が進んだことにより近年においては違った人物像で語られるようになりました。
戦国時代の革命児という表現が妥当ではないとは思いません。たしかに信長さんは天下統一への流れをつくったことで歴史を動かしました。新しいもの好きで当時最新の武器として日本にもたらされた鉄砲を積極的に取り入れ戦を有利に動かし、楽市楽座によって自由な商売を推進させ経済を活性化したといった部分が語られることがあります。
が、鉄砲を積極的に取り入れたのは彼だけではありませんでしたし、楽市楽座も彼が最初に始めたわけでもありません。またかつては比叡山延暦寺の焼き討ちなどを行ったことにより、とても残酷なイメージで描かれることが多くありました。僧侶や女子供を含む非戦闘員の命を多く奪ったとされるからです。
たしかにそれは恐ろしいイメージがついてもおかしくない。ですが当時の宗教勢力は軍事力をもっていることも多く、この比叡山延暦寺もそれに該当します。そればかりか高利貸しの闇金融といった側面までありました。本当に僧侶とみなしてよいのか疑問な人たちもいたことに加え、そもそもとして武装勢力でもあったのです。
加えて、当時敵対していた朝倉・浅井の軍をかくまっており信長さんとしても攻撃する理由があったのです。
新しいもの好きという話に関連して、かつては朝廷や将軍といった古い権威を否定していたように捉えられている節がありました。
彼は室町幕府第15代将軍・足利義昭を利用して敵対勢力を排除する大義名分を得たと語られることもあったのですが、近年では本当に将軍を補佐するつもりでいたが折り合い悪くなり破綻してしまったという見方が主流のような印象です。
また、朝廷との関係も敵対していたという見方もあれば、積極的にもり立てていたという見方もあります。
そして織田信長といえば銀色の甲冑を思い浮かべる方もおられるのではないでしょうか。 戦国無双などでも南蛮胴(なんばんどう)を着ている姿で描かれます。
南蛮胴というのは西洋からもたらされた鎧を日本風にアレンジしたもの。織田信長ゆかりの地である岐阜県のJR岐阜駅にある金色に輝く織田信長像も南蛮胴を着用した姿をしています。
(私も作ってみました)
が、じつはこれ史実ではないというのが定説です。この南蛮胴が初めて日本にもたらされた記録は西暦1588年。しかし織田信長がこの世を去ったのは1582年なので、彼は南蛮胴を見たことすらない可能性が高いのです。
とまぁ、織田信長に限らず新しい史料の発見や研究が進むことによって今まで定説とされてきたことが覆ることがよくあります。歴史は一度覚えて終わりというものではなく、どんどん更新されていくものなので大変な面はありますが、それもまた歴史の魅力のひとつかなとも思います。
織田信長の台頭
織田信長は天文(てんぶん)3年(西暦1534年)尾張国(おわりのくに)に生まれます。有名な戦国武将ではありますが、最初から高い身分であったわけではありません。
当時は守護という地位があり、それを補佐するのが守護代。彼の家はその守護代の家臣にして分家という立場でした。
とはいえ父の織田信秀はとても優秀な人物で、その実力は周囲から認められており、湊(みなと)を支配下に置いていたこともあり財力もありました。信長は先代から受け継いだ力もあって下剋上(げこくじょう)を果たし歴史の表舞台へと躍り出ます。その活躍をこれから簡潔にご紹介していきたいと思います。
桶狭間の戦い
永禄(えいろく)3年(西暦1560年)、織田信長は今川義元と激突します。当時今川義元は三国を領する大勢力だったのに対し織田信長は一国すらもまとめきれていたとは言えないとも言われる。
国力の差は兵力の差にも響く。今川軍は25000とも45000ともいわれ、対する織田軍はわずか3000ほど。圧倒的な兵力差であるにも関わらず今川軍の大将・義元は討ち取られ、この戦いは織田信長が勝利することとなりました。
この奇跡的な大逆転の裏には、情報戦の勝利があったとも言われます。戦ののち論功行賞が行われた際、敵大将を討ち取った者より、敵大将の居場所を突き止めた者の方が高く評価されたとのこと。
信長の強さがうかがえる一大エピソードでありました。と、言われることも多かったのですが・・・
●激しい雨が降ったことにより敵の警戒態勢が薄くなり、運よく敵本陣まで近づくことができた。
●いくら大軍でも部隊を散開させながらの進軍だったため、兵力差が活かされる前に敵本陣への攻撃が成功した。
●尾張国は豊かであり、対する今川領は三国とはいえそこまで豊かとは言えず、じつは国力差はそこまで極端に開きがあったわけではないのでは?
●じつは織田側は六角氏からの援軍が来ていたことが明らかになった。
これらのことから、以前ほど「奇跡の大逆転」とまではみなされなくなりつつある印象です。
美濃攻略戦
尾張国は以前から、北に位置する美濃国(みののくに)と争ったり仲直りしたりしておりました。美濃国の斎藤道三(さいとうどうさん)の娘・帰蝶が信長と政略結婚したことにより同盟関係となっていたものの、義父となった道三はその息子・義龍(よしたつ)との争いに敗れ戦死。ふたたび対立することとなりました。
時は流れ義龍もこの世を去り美濃の主は斎藤龍興(たつおき)となり、織田信長は美濃攻略を本格化。永禄10年(西暦1567年)、稲葉山城の戦いにてついに織田軍が勝利します。
なおこのあたりから信長は「天下布武」(てんかふぶ)を掲げるようになります。
この天下布武の意味、分かりますでしょうか?
武力で天下を平定するという意味ではありません。
「え、そうなの!?」
と思われた方もおられるかもしれませんが、「天下に七徳の武をしく」という意味。超簡単に略しに略していうと、暴力を禁じ、戦のない、民が安心して暮らせる豊かな世界にするという意味。「武」とは本来、「戈(ほこ)を止める」つまり戦が起こらないようにするという意味。
「いや、信長さん!アンタめっちゃ戦しまくっとるやん!?」
てな感じですが、意味としてはそうゆう意味なのです。暴力と武力をどこで線引きしていいものか判断つかないこともありますが、意味としては。
そしてこの天下布武の印を使い始めたのは将軍・足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛(じょうらく)を果たす一年前から。つまり天下布武とは、武力をもって将軍による支配を補佐しますという宣誓の意味だったのではなかろうかという見方が出てきました。
そして天下というと日本全域をさすようにも思えるのですが、この頃の信長さんがとなえた天下布武の天下というのは畿内(きない)、つまり京都を含むその周辺の地域のことだった可能性が高いことが分かってきました。
そのあたりを支配下においたあたりから天下の範囲が畿内から本州・四国・九州全域と広がったのではないかと思われます。
金ヶ崎の戦い
先ほども少し触れましたが、永禄11年(西暦1568年)、織田信長は将軍・足利義昭を奉じて上洛(じょうらく)を果たします。
すでに力を失ってしまった室町幕府ですが、権威はまだあったためそれを利用したとの見方が強かったのですが真偽は分かりません。
ちなみに上洛というのは超簡単に言いますと京都に行くこと。京都にて義昭が将軍職に復帰し、その後見人としての立場を手にした信長は各地の大名に「将軍様にご挨拶しに来るように」と書状を送りますが、それを無視した大名もおりました。
それは越前国(えちぜんのくに)の朝倉義景(あさくらよしかげ)。これに対し信長は将軍に従わなかったとみなし軍をさしむけます。順調に軍を進める織田軍ではありましたが・・・
義弟であり同盟関係にあった浅井長政(あざいながまさ)が裏切り、背後から迫ってくるとの情報が入ります。このままでは退路を断たれ絶体絶命。急遽撤退戦に変わります。これが世にいう金ヶ崎の退き口。明智光秀、木下秀吉(のちの豊臣秀吉)らの活躍のおかげでなんとか九死に一生を得ます。
姉川の戦い
元亀(げんき)元年(西暦1570年)、織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍が、近江国(おうみのくに)にて激突します。浅井軍・磯野員昌(いそのかずまさ)部隊の猛攻により、織田軍は深く斬りこまれ信長の本陣近くまで迫ったと言われます。これは「員昌の姉川十一段崩し」という逸話として残ります。
猛攻を受けた織田軍でしたがなんとか持ち直し、徳川軍の増援もあり勝利します。結果的に織田・徳川連合軍は1100余りの敵を討ち取りましたが、決定的な大打撃を与えたとまでは言い難く朝倉・浅井両軍は戦闘力を保持したまま撤退しました。
信長包囲網
この頃信長は多くの敵を抱えていました。信長包囲網です。先述した姉川の戦いの朝倉義景・浅井長政も含め、三好三人衆、石山本願寺、六角氏など、とにかく敵だらけ。
圧倒的に戦力不足であり、志賀の陣にて重臣・森可成(もりよしなり)が戦死するなど危機が続きます。さらには戦国最強と名高い武田信玄までもが参戦し、大ピンチを迎えます。
三方ヶ原の戦いにて徳川・織田連合軍を討ち破り、絶体絶命・・・だったのですが、なんと信玄は病にて命を落とし危機を脱します。
長篠の戦い
天正(てんしょう)3年(西暦1575年)、織田・徳川連合軍と武田軍が三河国(みかわのくに)にて激突します。戦国最強とも目された武田軍ではありましたが、多くの鉄砲を所持した織田・徳川連合軍の勝利となりました。
かつては鉄砲の三段撃ちにて勝利したと言われておりましたが、現在では否定されております。
またかつては、鉄砲を軽視した武田軍大将・武田勝頼(たけだかつより)が無謀な突撃を繰り返し、鉄砲による反撃を受け続けたために大敗したと言われることが多かったのですが、これも現在では否定的な見方が主流となっております。
武田軍の背後に位置する鳶ノ巣山(とびのすやまとりで)もしくは鳶ヶ巣山砦(とびがすやまとりで)を陥落させたことにより武田軍は退路を断たれ、攻めざるを得なかった。
また織田・徳川方は陣地構築も当時では珍しいほど本格的に行っており、鉄砲戦術をさらに効果的にしたともみられます。
そもそもとして武田軍も鉄砲の重要性は分かってはいたものの入手が困難で、湊(みなと)を有していた信長に鉄砲(弾丸や火薬も含め)の入手に大きな遅れをとってしまったようです。いずれにせよこの戦いののち、信長は武田を滅ぼすことになります。
手取川の戦い
運よく信玄が病没したことにより命拾いした信長は、長篠の戦いにて武田を討ち破りました。が、またも戦国最強と目される戦国武将と戦うこととなります。その戦国武将とは、上杉謙信。天正5年(西暦1577年)、手取川の戦いにて織田軍は上杉軍に大敗します。
またも大ピンチの信長さんでありましたが、なんと謙信までもが病に倒れこの世を去ります。ものすごいタイミングです。信玄のときといい、桶狭間のときの雨といい、彼は天が味方しているかのように運が良いと思えることが多々あります。が・・・
本能寺の変
多くの敵を薙ぎ倒し、このまま天下統一を果たすのも時間の問題かと思われていた矢先、家臣・明智光秀が謀反(むほん)を起こし、つまり裏切り信長はまさかの最期をとげます。
天正10年(西暦1582年)、本能寺の変。京都・本能寺に宿泊していた信長に明智軍13000(諸説あり)が攻めかかります。対する信長方はわずかな供しか連れておらず、多勢に無勢。信長自ら武器をとり応戦するも、自害に追い込まれることとなりました。
《豊臣秀吉の天下統一》
山崎の戦い
羽柴秀吉(はしばひでよし)、のちの豊臣秀吉が主君・織田信長の死を知ったのは中国地方で毛利氏と対陣していたとき。秀吉は毛利とただちに和睦し、猛スピードで軍を引き返します。世にいう中国大返し。そして明智軍を撃破し、主君の仇討ちを果たします。
そのことにより秀吉は織田家家臣団のなかで発言権を強めることとなり、すぐ後に行われた清須会議を経て織田家をコントロールしやすいポジションを手に入れます。
賤ヶ岳の戦い
織田家のなかには秀吉の台頭を良しとしない者たちも多くおり、その筆頭が柴田勝家(しばたかついえ)。天正11年(西暦1583年)、賤ヶ岳の戦い。この戦いにより秀吉は勝家を討ち破り、信長が築き上げた勢力をのっとることに成功します。
小牧・長久手の戦い
織田家が秀吉にのっとられたことに危機感を覚えた人物がおりました。信長の次男(三男説もあり)・織田信雄(おだのぶかつ)です。信雄は徳川家康を味方につけ、秀吉と対決。
天正12年(西暦1584年)、小牧・長久手の戦い。秀吉と家康、唯一の直接対決となった戦いです。総合的な兵力は秀吉の方が上でしたが、長久手合戦において家康は羽柴軍を討ち破ります。
このことにより家康の野戦での強さが全国の大名に知れ渡ります。秀吉もその強さを認め、標的を信雄に集中させ和睦に持ち込みます。信雄の援軍として参戦していた家康も大義名分を失い、この戦いは幕を閉じます。このことからこの戦い、
「戦略的には秀吉の勝ち」
「戦術的には家康の勝ち」
と言われることがあります。
秀吉はその後も勢力拡大を続けます。四国の長宗我部、九州の島津、奥州の伊達、関東の北条を屈服させ、天正18年(西暦1590年)、ついに秀吉は天下統一を果たします。
これにて戦国の世は終わり・・・
とはいきませんでした。秀吉は朝鮮に出兵し国力は疲弊、豊臣政権は内部から崩れかけていきます。
そんなさなか1598年、秀吉がこの世を去ると徳川家康が台頭。豊臣政権の重鎮・前田利家(まえだとしいえ)までもがこの世を去り、ふたたび戦乱の足音が近づいてくるのでした。
《徳川家康の天下泰平》
関ヶ原の戦い
慶長(けいちょう)5年(西暦1600年)、全国の戦国大名が西軍と東軍とに分かれ激突!天下分け目の関ヶ原の戦いです。ちなみにこの戦い、豊臣勢力 VS 徳川勢力といったイメージがある人もいるかも知れませんが、形としては豊臣政権内の内輪争いであります。
また石田三成(いしだみつなり)が西軍の総大将だと思われている方もおられるかも知れません。が、あくまで彼は西軍の中心人物であって総大将ではありません。西軍の総大将は毛利輝元(もうりてるもと)です。
本戦が行われたのは美濃国・関ヶ原ですが、その他複数の場所で西軍と東軍とが戦いました。北の関ヶ原とも呼ばれる慶長出羽合戦(けいちょうでわかっせん)をはじめ、大津城の戦い、上田合戦、石垣原(いしがきばる)の戦いなど全国規模の戦いでありました。徳川家康率いる東軍がこの戦いに勝利し、天下はほぼ徳川のものとなりました。そして慶長8年(西暦1603年)、家康は江戸幕府を開きます。
大坂の陣
天下はほぼ徳川のものとなりましたが豊臣家はまだ残っており、いまだ大勢力でありました。徳川家康からしてみれば騒乱の火種にもなりかねません。
たとえ豊臣にそのつもりがなくとも、反徳川の意思を持った者が豊臣をかつぎあげ戦にまで発展してしまう可能性もなくはない。家康は豊臣に最後の戦いをしかけます。
慶長19年(西暦1614年)、大坂冬の陣。徳川家康は大軍勢にて豊臣秀頼(とよとみひでより)のいる大坂城を攻めます。対する豊臣方も多くの浪人たちを味方につけ対抗します。
真田信繁(さなだのぶしげ)らの活躍があったものの、徳川優勢のまま和睦。その条件として大坂城の堀を埋め、戦う意思はもうないことを示す豊臣方でしたが翌年、家康はまたも攻めかかります。大坂夏の陣です。
またもこのとき真田信繁は活躍し徳川軍総大将・家康をあと一歩のところまで追い詰めますが、わずかに及ばず。秀頼は自刃し豊臣は滅び、永きにわたる戦国時代は幕を閉じることとなりました。
はい。というわけで、三英傑である信長・秀吉・家康に関わるエピソードを超簡潔にまとめてみました。
途中ボリュームが厚い部分と薄い部分とがあったり、漢字にどこまでふりがなを入れればいいのかや、どこまで略すのが妥当なのか迷いながら書きましたが戦国時代の大きな流れをなんとなく掴んでいただけましたら幸いであります。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
このシリーズ、他にもございますのでよろしければ読んでみてください。
【戦国パンダ部長】全種一覧
https://jaminism.hatenablog.com/entry/2024/08/15/143713
https://jami-japanese.booth.pm/items/8154613










































えっと・・・めちゃくちゃ面白いです!
何度もパンダのぬいぐるみにもっていかれましたが、「え?そうなの?」と思う箇所が何度もあって、結局一気読みしました。
「現在は否定されています」って多いのですが、何でなんだろうと思います。
歴史は語り継がれているはずなのに、どこで間違えたのか。
そして、なぜそれを今、気がつけた(仮説かもだけど)が気になりました。
記事に出会えてよかったです。ジャミさん、ありがとうございます!
甲冑をどうやって作ったのかが気になりました😂