戦国武将紹介 上杉謙信
戦えば最強、帰れば仲裁役
前回の記事にて、戦国最強は武田信玄みたいなことを書きましたが、あくまでそれは候補。そしてこの方も戦国最強候補としてよく名が挙がります。
上杉謙信(うえすぎけんしん)
とにかく彼は強かった。勝率は全戦国大名の中でトップかも知れない。
武田信玄が『甲斐の虎』なら
上杉謙信は『越後の龍』
はたまた、『軍神』とも称されました。
龍虎激突!
永禄4年(西暦1561年)、ともに戦国最強と目される二人が激突します。世に言う第四次川中島の戦い。
この戦い、有名なわりには詳しいことがわかっておりませんが、かなりの激戦となったようです。
結果としまして、上杉・武田 両軍に大きな損害を出しつつも、総合的には武田側の被害の方がやや大きく、また重臣が何人も討ち取られたのに対し上杉側の重臣は生き残りました。
しかしながら戦場となった北信濃は武田が支配することとなります。そういったことからこの戦い、
戦略的には武田信玄の勝ち
戦術的には上杉謙信の勝ち
といった見方をされることが多く、引き分けのような結果となりました。
じゃぁ結局どっちが強いんだ?って話ですが、明確に比べられません。戦歴はどうでしょう?
小規模な戦闘・城攻め・局地戦のすべてを記録した同時代史料は残っていないのですが、一方で主要な戦については次のように整理できます。
1548年 坂戸城の戦い 🟢勝利
1553年 第一次川中島の戦い 🔺引き分け
1555年 第二次川中島の戦い 🔺引き分け
1555年 北条城の戦い 🟢勝利
1556年 駒帰の戦い 🟢勝利
1557年 第三次川中島の戦い 🔺引き分け
1560年 沼田城救援戦 🟢勝利
1561年 小田原城包囲 🔺攻略失敗(撤退)
1561年 第四次川中島の戦い 🔺決着なし(双方大損害)
1562年 生野山の戦い 🟢勝利
1562年 唐沢山城救援 🟢勝利
1564年 第五次川中島の戦い 🔺引き分け
1566年 臼井城の戦い ❌敗北(攻略失敗)
1567年 唐沢山城の戦い 🟢勝利
1573年 尻垂坂の戦い 🟢勝利
1575年 越中出兵 🟢勝利
1576年 増山城の戦い 🟢勝利
1577年 手取川の戦い 🟢勝利
【勝敗のまとめ(主要な戦)】
勝利:11
敗北:1
引き分け・決着なし:5🔥相手は全て信玄
攻城失敗(撤退):1
勝率高ぁ!😳
ちなみに以下が、武田信玄のデータ
※前回の記事にて詳細あり
↓ ↓ ↓ ↓
勝利:9
敗北:1
引き分け・決着なし:5
攻城失敗(撤退):1
どちらも凄いけど、このデータだけで比べると謙信の方がやや上回っております😳
いやぁ〜〜、さすが軍神と呼ばれるだけはありますわ〜😌⚔️
よっ!越後の龍🐉✨
よっ!甲斐の虎🐯✨
強さのタイプ
「信玄=戦略家、謙信=直感型」
というイメージはよく語られます。史実としてそのように分類した史料は確認できませんが、両者には実際に異なる傾向が見られます。
武田信玄
信玄は、戦場だけでなく外交・内政・兵站を含めた総合的な戦略を重視した武将として評価されています。
例えば、同盟や離反工作(調略)を積極的に活用したり、治水事業や法整備など、領国経営にも力を注ぎました。
必要以上に決戦を急がず、有利な状況を作ってから戦うことが多かったように見受けられます。
そのため、「戦略家」と呼ばれることが多いのでしょう。
上杉謙信
一方の謙信は、
自ら前線で軍を指揮することが多く、さらには出陣回数が非常に多い。
また、敵の動きに応じて素早く軍を動かす場面が多く見られる。
こうしたことから、「機動力に優れた武将」と評価されているように見受けられます。
ただし、「直感だけで戦った」というわけではありません。
例えば第四次川中島の戦いでは、妻女山への布陣や夜間の移動など、地形や状況を踏まえた行動を取っており、戦況を見極めながら判断していたことがうかがえます。
まとめますと、
史実から言えるのは
⚫︎武田信玄は、外交・内政・兵站まで含めて長期的な勝ち筋を組み立てることに長けた武将。
⚫︎上杉謙信は、優れた機動力と現場での判断力を生かして戦った武将。
という違いです。
一方で、「信玄は頭脳派、謙信は直感派」と断定できる史料は確認できず、そのようなイメージは後世の評価が大きく影響しているのではないでしょうか。
はぁ〜〜✨
やっぱり、
謙信を語る上で信玄は欠かせないですな🥹
そして信玄を語る上で謙信は欠かせない🥹
とにかく強〜〜い武将さん、謙信公!
謙信ってどんな人?
1530年、彼は現在の新潟県で生まれます。幼い頃の名前は「虎千代」(とらちよ)。
父は越後(現在の新潟県)を治める有力武将、長尾為景(ながおためかげ)。
え!?長尾!?Σ(゚д゚lll)
長尾さんって誰!?Σ(゚д゚lll)
てな感じですが、生まれたときは上杉さんではなく長尾さんだったんですね。
兄がいたため跡を継ぐ可能性は低いため、子どもの頃は寺で学問を学び育ちます。
しかし13歳のとき、父が亡くなり兄が家を継ぎますが、家臣同士の争いが絶えず、国は混乱してしまいます。
「このままでは国がまとまらない」と多くの家臣に期待され、18歳で兄に代わって当主となり、「長尾景虎」(ながおかげとら)と名乗ります。
その後、越後をまとめ上げ、戦国時代を代表する名将へと成長していきます。
が、
こんな一面も……
家臣同士のケンカの仲裁はウンザリ
第四次川中島の戦いから遡ること5年。
上杉謙信は家臣同士や国衆(地元の武士たち)の対立の仲裁に疲れ果てていました。
戦では次々と勝利を収める一方、身内の争いは武力では解決できず、ついに謙信は出家(しゅっけ)すると決意し、高野山へ向かおうとしました。
つまり、
「もういい!オレ、武士やめる!僧侶になる!あとは知らん!」
ということ。
しかし、重臣たちが必死に説得し、謙信は越後へ戻ることになります。
戦場では「軍神」と恐れられた謙信ですが、彼を悩ませた相手は敵ではなく、家臣同士の争いだったのかも知れません。
上杉謙信、誕生!
長尾景虎(のちの上杉謙信)は、もともと長尾家の当主でした。
しかし1552年、関東で勢力を失っていた関東管領(かんとうかんれい)の上杉憲政(うえすぎのりまさ)が景虎を頼って越後へ逃れてきます。
関東管領って何?😐って感じですね。
これは室町幕府が関東を治めるために置いた、関東地方の最高職であります。
まぁ、超簡単に一言で言いますと、「めっちゃ偉いポジション」と覚えておいてください(何も分からん😐)。
憲政は景虎の実力を認め、自らが持っていた上杉家の家督と関東管領の地位を譲ることを決めました。
これにより景虎は長尾家から上杉家を継ぎ、「上杉政虎」(まさとら)と名乗るようになります。
その後、1561年頃に将軍・足利義輝(あしかがよしてる)から「輝」の字を受けて「上杉輝虎」(てるとら)へ改名します。
さらに1570年、出家したことを機に法号である「上杉謙信」を名乗るようになりました。
つまり、
長尾景虎
↓
上杉政虎(上杉家を継ぐ)
↓
上杉輝虎(改名)
↓
上杉謙信(出家後の法号)
という流れになります。
出家? 法号?
僧侶になったの?😳
てな感じですが、戦国時代の大名にとっての「出家」は、必ずしも政治や軍事の第一線を退くことを意味しませんでした。
ちなみに彼の正式な法号は、
不識庵謙信(ふしきあん けんしん)
ちなみにちなみに
武田信玄の「信玄」も実は法号で、正式な法号は
徳栄軒信玄(とくえいけん しんげん)
もう誰だか分かりませんね🥹
謙信ゆかりの者たち
宇佐美定満
宇佐美定満(うさみさだみつ)。若き日の謙信を支えた重臣と伝えられていますが、詳しい記録は少なく、実際にどのような活躍をしたのかは分かっていない部分も多くあります。
「謙信を支えた名軍師」というイメージが出回っているものの、後世の創作が含まれていると考えられています。
柿崎景家
柿崎景家(かきざきかげいえ)。勇猛な武将として知られ、川中島の戦いをはじめ数々の合戦で活躍しました。
常に最前線で戦ったと伝えられ、上杉軍を支える中心人物として大きな存在感を放ちます。
その勇敢な戦いぶりから、現在でも上杉家を代表する名将の一人として高く評価されています。
上杉景勝
上杉景勝(うえすぎかげかつ)。謙信の養子となり、その後を継いで上杉家の当主となった武将です。
謙信の死後に起きた後継者争い「御館の乱」(おたてのらん)を勝ち抜き、乱世の中で上杉家を守り抜きました。
その後は豊臣秀吉や徳川家康の時代を生き抜き、戦国時代から江戸時代への大きな時代の変化を乗り越えた名将として知られています。
直江兼続
直江兼続(なおえかねつぐ)。謙信の死後、その養子である上杉景勝に仕えた名将。
戦では軍を率い、政治や外交でも優れた手腕を発揮し、景勝とともに上杉家を支え続けました。知略と忠義を兼ね備えた人物として知られ、その活躍から戦国時代を代表する名家老の一人として現在も高く評価されています。
上杉謙信は、酒好きだったことでも知られています。酒を好み、日頃から多く飲んでいたと伝えられています。
1578年、彼は49歳(満年齢48歳)でその生涯を閉じます。死因ははっきり分かっていませんが、現在では脳卒中(脳出血など)だった可能性が高いと考えられています。
酒の飲み過ぎが病気の原因になった可能性も指摘されています。
「軍神」と呼ばれ、数々の激戦を駆け抜けた上杉謙信。その波乱に満ちた生涯は、ここで静かに幕を閉じました。
上杉謙信には、「実は女性だったのでは?」という有名な説があります。
生涯結婚しなかったことや、女性説の根拠として語られる逸話があることから、この説が広まりました。
しかし、上杉謙信が女性だったことを裏付ける確実な史料は見つかっていません。 現在では、後世に生まれた俗説と考えられています。
歴史のロマンを感じさせる説ではありますが、史実としては「上杉謙信は男性の戦国大名」と考えるのが現在の一般的な見解です。
歴史にはこういった話がたくさんあり、一般に広く知られているものも多いです。が、それが本当のことかどうかは分かりません。
本当のことというのは、なかなか分からないものです。有名な専門家さんが「こうだ!」と言っても、後で間違っていたことが判明なんてことも普通にあります。
なので私は、
「こうゆう史料があります」
「こうゆう説があります」
「私はこう考えております」
でも!
「実際にはわかりませんよ」
というスタンスで歴史と向き合っております。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
【戦国パンダ部長】全種一覧
https://jaminism.hatenablog.com/entry/2024/08/15/143713
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戦国記事すべて置いてあります
感謝感謝でありますっ🥹✨

















憧れの人、謙信。
名前を変えるというのは美術界でも北斎のような人がいますが、もともと日本の文化なのでしょうか?大河ドラマで「風林火山」が面白かったのを思い出しました。
今回も楽しく読ませて頂きました。
上杉謙信と武田信玄は切っても切り離せない関係ですね。両雄がご近所で何回も戦ったと言うのはまるで後世にこの2人を語り継ぎなさいとのメッセージの様な感じがします。
謙信、女性説は初めて聞きました。謙信は男好き❤️なので独身を通したと言う説は聞いた事はあります キモ〜い!
そう言う意味では信長も同じ穴の狢ですかね?