戦国武将紹介 徳川家康
もらしてないよ🥹 しかみ像は三方ヶ原の戦いとは関係ないよ🥹
徳川家康(とくがわいえやす)
それは、長きにわたる戦国時代を終わらせた偉人。そして、忍耐の人。
彼は様々な苦難を乗り越え、江戸幕府を開くに至りました。
こんな言葉があります。
目的達成に対するスタンスを詠んだ句。
織田信長
「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」
豊臣秀吉
「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」
徳川家康
「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」
残虐性を強調した織田信長。
不可能を可能にする印象を与える豊臣秀吉。
そして、どれだけ時間がかかっても、着実に目的を達成するまで耐え続ける徳川家康。
分かりやすいよう例えてくれてますね。
ちなみに、実際に彼らが詠んだ句ではありません。
これは後世の人が三英傑の人物像をわかりやすく表現するために作ったものであり、本人たちの実際の発言であることを示す一次史料は確認されていません。
が、そうゆう印象が人々の中にあったからこそ、こうゆうものが生まれたのでしょう。
徳川家康は忍耐の人。たしかに間違ってはいないかも知れない。が、よく耳にするいくつかの話には、明らかなフィクションが混ざっていることも知っておくと良いと思います。
幼い頃は人質生活
はい、見出しからして苦難のスタートといった印象ですね。
彼は天文11年、西暦1543年に生まれました。幼名は竹千代(たけちよ)。
幼い頃、織田信秀(おだのぶひで)のもとへ人質となり、その後、今川義元(いまがわよしもと)の人質となります。
うわぁ〜、人質かぁ〜、厳しい幼少時代😨
と思われましたでしょうか?
が、人質という言葉に引っ張られてはいけません。むしろ、武芸・学問・礼法・政治教育などを施され、大切に育てられたと考えられます。
近年は、「家康は幼少期に過酷な虐待を受け、それが忍耐強い性格を形成した」という従来の物語は、一次史料では十分に裏付けられないと考えられています。
松平元康
そして竹千代少年は元服(げんぷく)。つまり成人式みたいなものですね。元服して、
松平元康(まつだいらもとやす)と名乗ります。
って誰ぇ〜っ!?Σ(゚д゚lll)
松平さんって誰ぇ〜っ!?Σ(゚д゚lll)
って感じかも知れませんが、彼はまだ徳川ではありませんでした。この頃は松平さん。
そして西暦1560年、桶狭間の戦い。
織田信長 vs 今川義元。
このとき松平元康は今川軍として参戦。このとき19歳。若い!しかもあくまで数え年で19歳であり、満年齢だと17歳となります。
この桶狭間の戦いにて、今川軍はまさかの敗北。松平元康も大ピンチ!と思いきや、これが思わぬ展開を見せます。
総大将・今川義元が討ち取られたことを知ると、駿府へは戻らず、本領である三河に向かいました。そして三河国内をまとめていき、今川氏との従属関係を実質的に解消していったのです。
そして西暦1562年、かつては敵として戦った織田信長と同盟を結びます。
そして1567年、晴れて徳川家康と名乗ることとなります。
織田信長との共闘
西暦1570年、姉川の戦い。
織田・徳川 連合軍 vs 朝倉・浅井 連合軍
この戦いは徳川家康にとって、初めて織田信長と本格的に連合して臨んだ大規模な野戦となりました。
家康は同盟相手である信長を支援するため、約5,000の兵を率いて出陣。近江国の姉川周辺にて激戦を繰り広げます。
徳川軍は朝倉軍の激しい攻撃を受け、一時は押し込まれますが、態勢を立て直して反撃!
最終的に織田・徳川連合軍の勝利となります。
この勝利によって、家康は信長の有力な同盟者として全国に存在感を示すことになりました。
家康自身にとっては、三河・遠江の防衛だけでなく、信長との同盟を維持し、自らの勢力を発展させるうえで重要な転機となった戦いとなったのです。
三方ヶ原の戦い
西暦1573年、徳川家康は戦国最強とも名高い武田信玄と激突します。世にいう三方ヶ原の戦い。
家康はこの戦いに惨敗し、多くの犠牲を出しつつも九死に一生を得ます。
《実は違うヨ》
漏らしてないヨ
三方ヶ原の戦いで徳川家康が恐怖のあまり脱糞したという逸話は広く知られています。
なんなら、大河ドラマでも描かれております。
しかし、この話を裏付ける同時代の一次史料は確認されていません。
この逸話の元になったとされるのは、江戸時代の『三河後風土記』。しかしながら、この書物で描かれているのは三方ヶ原の戦いではなく、一言坂の戦いでの出来事。
家康が浜松城へ戻った際、家臣の大久保忠佐が馬の鞍に付いた糞を見て家康をからかったという内容が記されています。
その後、1838年成立の『改正三河後風土記』では、この逸話自体が「妄説(事実ではない話)」として削除されました。理由として、「一言坂の戦いには家康は出陣しておらず、逃げ帰ること自体があり得ない」と説明されています。
このため、現在では一言坂の戦いの逸話が後世に三方ヶ原の戦いと混同され、「三方ヶ原で家康が脱糞した」という話として広まった可能性が指摘されています。
なので、大河ドラマなどでこのエピソードが描かれてたりすると、
……ちゃんとフィクションだと分かってて、あえてエンタメとして描いてるのかな😑
事実確認せずに作っちゃってるのかな😑
とか思っちゃいます。
しかみ像は関係ないヨ
しかみ像という絵をご存知でしょうか?
正式名称『徳川家康三方ヶ原戦役画像』
この絵は、「三方ヶ原の戦いで敗れた直後の家康が、自戒のために描かせた肖像画」として広く知られておりました。
しかし、近年の研究では、この伝承を裏付ける史料は存在しないことが明らかになっています。
また、この肖像画は明治時代には「長篠戦役」の図として扱われていた時期があり、「三方ヶ原の敗戦直後の姿」という説明が確認できるのは1936年の展覧会紹介以降です。
オイオイッΣ(゚д゚lll)
さらに、「家康自身が自戒のために描かせ、生涯手元に置いた」という現在広く知られる物語は、昭和時代になって形成・定着した伝承と考えられています。
しょ、昭和から🫠
そのため現在の研究では、しかみ像と三方ヶ原の戦いを直接結び付ける史料的根拠は確認されておらず、両者を結び付ける伝承は近代以降に成立したものと理解されています。
信康事件
徳川家康には、信康(のぶやす)という有能な嫡男(ちゃくなん)、つまり跡取り息子がおりました。が、同盟者である織田信長から、武田氏に通じていると疑いをかけられ、なんとコロセとの命令を受けてしまいます。
同盟関係とはいえ、織田と徳川は対等な立場とは言いがたく、信長の意に背くことは彼を敵に回してしまう可能性すらある。
家康はやむなく、信康を切腹させることとなりました……
と、かつては語られてきましたが、これらの内容を裏付ける同時代の一次史料は乏しい。
「信長の命令が絶対的な原因だった」という従来説は見直され、徳川家中の対立や家康自身の政治判断だったのでは?とする説が有力になっています。
つまり、もともと徳川家の内部対立が原因で、家康さんの意思決定であった可能性の方が高いのでは?
という見方が、近年では強いようです。
伊賀越え
徳川家康の同盟者である織田信長がどんどん勢力拡大していきます。が、1582年に本能寺の変が起こります。
織田信長は、家臣・明智光秀の裏切りにより自害に追い込まれてしまいます。
このとき家康は、堺(現在の大阪府堺市)に滞在していました。
家康は、織田信長から領国見物を勧められ、少人数の供回りを連れて、いわば観光していたところに、信長が明智光秀の謀反によって討たれたという知らせを受けます。
当時の畿内(きない。京都を含むその周辺地域)は織田勢力圏でしたが、信長の死によって情勢は一変しました。
家康は敵地同然となった地域にわずかな供回りで取り残され、一時は自害も覚悟したと『伊賀越道中記』などの後世史料に伝えられています。
そこで家康は、家臣の服部半蔵らの案内を受け、堺から山城・伊賀を経て伊勢へ抜け、船で三河へ帰還するルートを選びました。この逃避行が「伊賀越え」です。
道中では、伊賀の地侍や忍びの協力を受けながら山道を進み、一行は無事に伊勢へ到着します。その後、伊勢湾を船で渡り、三河へ帰還しました。
伊賀越えは、家康が生涯で経験した最も危険な局面の一つとされます。
ただし、現在の研究では、「服部半蔵率いる忍者軍団が家康を救った」という有名な物語は後世の脚色を含むと考えられています。
半蔵が家康の帰還に関わったことは史料からうかがえますが、大勢の忍者が派手に護衛したことを示す同時代史料は確認されていません。
現在は、伊賀・甲賀の地侍や案内人など複数の協力によって家康が無事帰国できたとみるのが一般的です。
⚠️忍者って書きましたが、当時「忍者」とは呼ばれていなかったし、現代の我々が想像するものとは違いました。その辺りもいつか記事にするかも知れません😌🥷
秀吉との激突!
信長を討った明智光秀も、山﨑の戦いにおいて羽柴秀吉に敗れます。主君の仇討ちを成功させた秀吉は、織田家家臣団のなかで発言権を高めます。
それを良しとしない柴田勝家ら反対勢力を賤ヶ岳の戦いで破った秀吉は、信長が築き上げた勢力を乗っ取ってしまいました。
これに危機感を抱いたのが、信長の次男(三男説もあり)・織田信雄(おだのぶかつ)。
単体では秀吉に対抗できる戦力がない信雄は、ある戦国大名に援軍を要請します。
それは、織田家の同盟者であり実力者でもあった
徳川家康
家康は秀吉と対決することとなりました。
世にいう、小牧・長久手の戦い
総合的な兵力は秀吉の方が上でしたが、家康は小牧山に陣を築き、堅固な防御態勢を整えます。
一方の秀吉は犬山方面に大軍を集結させましたが、小牧山を正面から攻めることは困難であり膠着状態となってしまいます。
そこで秀吉は、池田恒興や森長可らに三河への迂回攻撃を命じます。
しかし、この動きを察知した家康が迎撃し、長久手の戦いで池田恒興・森長可らを討ち取って勝利を掴みます。
このことにより家康の野戦での強さが全国の大名に知れ渡ります。秀吉もその強さを認め、標的を信雄に集中させ和睦に持ち込みます。
信雄の援軍として参戦していた家康も大義名分を失い、この戦いは幕を閉じます。このことからこの戦い、
「戦略的には秀吉の勝ち」
「戦術的には家康の勝ち」
と言われることがあります。
戦が収まってから秀吉は、なんとか家康を味方に引き入れようと、あの手この手で迫ってきます。
まず、秀吉は妹を家康に嫁がせます。
さらには母親を人質として送りつけてきます。
……秀吉さん、何でもやるんやね🥹
てな感じですが、それほどまでに家康のことを高く評価していたのですね。
そしておそらく渋々であろうと思われますが、秀吉に臣従することとなります。
この臣従により、家康は豊臣政権の有力大名となりますが、所領はそのまま保持され、高い独立性も維持していました。
そのため、家臣というよりは、豊臣政権下の最大級の大名として秀吉に従ったと表現するのが適切かと思われます。
関ヶ原の戦い
西暦1598年、天下人・豊臣秀吉が世を去ります。
徳川家康は次の天下を見据えていたのか、有力大名との婚姻関係を次々と結び、諸大名の支持を集めていきました。
少なくとも、自らの勢力拡大を積極的に進めました。こうした動きは豊臣政権内で警戒され、やがて石田三成との対立を深めていきます。
そして西暦1600年、ついに天下分け目の大戦が起こります。
関ヶ原の戦いです。
全国の大名が西軍と東軍とに分かれ、激突しました。
東軍の総大将は徳川家康。
西軍の総大将は石田三成だと思っておられる方もおられるかも知れませんが、あくまで彼は西軍の中心人物であり、総大将は毛利輝元。
この戦いは、徳川家康率いる東軍の勝利となりました。
なおこの戦い、徳川勢力と豊臣勢力の激突のように思われている方もおられるかも知れませんが、形としましては豊臣政権内での内部抗争であります。
そして家康は、江戸幕府を開きます。江戸時代の始まりです。
大坂の陣
関ヶ原の戦いの結果、天下はほぼ徳川のものとなりました。が、豊臣家はまだ残っており、いまだ大勢力。家康からしてみれば騒乱の火種にもなりかねません。
たとえ豊臣にそのつもりがなくとも、反徳川の意思を持った者が豊臣をかつぎあげ戦にまで発展してしまう可能性もなくはない。家康は豊臣に最後の戦いをしかけます。
慶長19年(西暦1614年)、大坂冬の陣。徳川家康は大軍勢にて豊臣秀頼(とよとみひでより)のいる大坂城を攻めます。対する豊臣方も多くの浪人たちを味方につけ対抗します。
真田信繁(さなだのぶしげ)らの活躍があったものの、徳川優勢のまま和睦。その条件として大坂城の堀を埋め、戦う意思はもうないことを示す豊臣方でしたが翌年、家康はまたも攻めかかります。大坂夏の陣です。
またもこのとき真田信繁は活躍し徳川軍総大将・家康をあと一歩のところまで追い詰めます。
家康、大ピンチ!
が、わずかに及ばず。
戦いは徳川軍が勝利。秀頼は自刃し豊臣は滅び、長きにわたる戦国時代は幕を閉じることとなりました。
こうして見てみると、家康さんは何度も何度もピンチに見舞われております。
桶狭間、三方ヶ原はもちろんのこと、長篠の戦い(1575年)でも武田軍の猛攻激しく、
伊賀越えはもちろん、小牧・長久手も関ヶ原の戦いもどう転ぶか分からなかったでしょうし、大坂夏の陣では真田隊の猛攻がヤバかった。
それらをくぐり抜け、天下泰平を実現した家康さん。
“忍耐の人” という表現で語られても、私は違和感がありません。
家康を支えた名臣たち
本多忠勝
本多忠勝(ほんだただかつ)。その生涯において57回の戦に参戦し、なんと無傷!猛将中の猛将として語られる。(ホントかどうかは知りません😛)
手に持つ槍は、天下三名槍のひとつ、蜻蛉切(とんぼきり)。槍先に止まったトンボが真っ二つに切れたという逸話が残る。
井伊直政
井伊直政(いいなおまさ)。 “井伊の赤鬼” と呼ばれ恐れられた猛将。軽装で出陣し毎回無傷で帰還する本多忠勝とは対照的に、重装備で出陣ししょっちゅう傷だらけで帰還してきたという。
本多正信
本多正信(ほんだまさのぶ)。『知』によって家康を支えた重臣。 政治・外交・行政面で家康を補佐しました。
また幕府創設期に幕政へ深く関与し、統治体制の整備に貢献したとされます。
榊原康政
榊原康政(さかきばらやすまさ)。知勇兼備の名将。徳川家臣団の中でも軍事・統率・行政の三拍子がそろった名将として評価されています。
服部半蔵
服部半蔵(はっとりはんぞう)。忍者として名を馳せているが、彼は忍者ではなく武将。
服部半蔵が忍者だったのは初代だけで、映像作品などで大活躍するのは、二代目服部半蔵の正成(まさなり)。
服部半蔵とは、代々受け継がれていく名前なのであります。正成は槍の達人で、 “鬼半蔵” の異名で知られました。
はい、いかがだったでしょうか。
もしかしたら、今まで思い描いていたイメージとは違った内容だったかも知れません。
よく耳にしていたエピソードが、じつはフィクションだった。なんてことはよくあります。
かと言って私は、
「フィクションは悪!史実を勉強しろ!史実を知らないなら作品を作るな!」
なんてことは思いません😌
史実とフィクションは分けて考えることが大事なのだと思っております。
史実は史実として受け止めて、フィクションはフィクションとして楽しむ。それで良いのだと思います。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
《戦国記事置場》
戦国記事すべて置いてあります
感謝感謝でありますっ✨








































ジャミさん、こんばんは。
今回も興味深い記事でした。
信康の処分が家康の政治的判断の可能性も高かった事は知らなかったです。研究が進んで新たな説が出てくるのは、本当に面白いです。
やはり、服部半蔵さんの真の姿が気になりますね😆