戦国武将紹介 真田信繁
六文銭。それは三途の川の通行料
天下人・徳川家康から「日ノ本一ノ兵(ひのもといちのつわもの)」、つまり、日本で一番強い武士と呼ばれたとされる戦国武将がおります。
その名は、真田信繁(のぶしげ)。
誰それ?って思われた方もおられるかも知れません。真田幸村(ゆきむら)と言えば伝わるかも知れませんね。幸村というのは創作作品にてつけられた名前で、本当の名前は信繁です。
彼は戦国時代最後の大戦・大坂の陣にて活躍した武将さんです。戦国時代がいつからいつまでと定義するかは諸説ありますが、私は慶長(けいちょう)二十年(西暦1615年)に起こった大坂夏の陣の終わりをもってして、戦国時代の終焉とする説を採用しております。
あ、そうそう、余談ですが、
大阪という地名がありますが、大坂冬の陣や大坂夏の陣の場合は「大坂」と表記します。大きな坂と書くんですね。
真田信繁が生まれた年は諸説あるものの、西暦1567年説が有力です。この年は一部の戦国ファンのあいだでは “黄金期” とされています。
真田信繁の他、伊達政宗や立花宗茂(たちばやむねしげ)といった有能な武将さんたちが誕生した年だからです。
「政宗さんは分かるけど、立花宗茂さんって誰?」
って方もおられるかも知れませんね。この方も凄い方なので、改めてご紹介させていただくかも知れません。
真田の六文銭
真田の家紋は六文銭(ろくもんせん)。銭というのは昔のお金の単位ですね。三途の川の通行料が六文だそうです。つまり、
いつでも死ぬ覚悟はできている
という意味が込められている。
ガチですね。ガチなものを感じます。
真田信繁の兜の前立て(まえだて)、つまり額の上部につける装飾についてるのが、その六文銭となります。
(私も真田信繫の甲冑つくっちゃいました)
大坂冬の陣
関ヶ原の戦いが終わると、天下はほぼ徳川家康のものとなりました。が、それ以前に天下を治めていた豊臣家がまだ残っております。
家康さんにとって豊臣家は、争いの火種になりかねません。たとえ本人たちにその気がなくとも、彼らを担いで反徳川勢力が反旗を翻さないとも限りません。
なのでついに、
西暦1614年、豊臣へ最後の戦をしかけます。これが世に言う大坂冬の陣。豊臣方も黙って滅ぼされるわけにはいきません。多くの浪人(ろうにん)たちを集めて、迎撃体制を整えていきます。その中に、後に名将として語られることとなる真田信繁がおりました。
ちなみに
浪人というのは簡単に言うと、主を持たない武士たち。職を失った武士たち。そのとき集められた多くの浪人たちは関ヶ原の戦いにて西軍、つまり徳川家康と敵対した側についていた者たちだったこともあり、この関ヶ原の戦いにて敗れた側。
負けた側は改易(かいえき)、つまり領地を没収された者たちであり、徳川に恨みを抱いていた者もいたでしょう。それ以前に職を求めておりました。彼らも豊臣家からの援軍要請は渡りに船だったので、自然な流れでこうゆう構図となったのでしょう。
大坂五人衆
この中には真田信繁の他にも名を馳せた者たちもおりました。
後藤又兵衛(ごとうまたべえ)
毛利勝永(もうりかつなが)
長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)
明石全登(あかしてるずみ、たけのり、ぜんとう)
彼らの存在は劣勢にあった豊臣方の精神的主柱となったことと思われます。
真田丸
真田信繁は『真田丸』という出城、つまり本城を守るための砦を築き、迫り来る徳川の大軍勢を迎え撃ちます。数の上では圧倒的であった徳川軍に大打撃を与え、なんと撃退してしまいます。
が、さすがの徳川家康。真田信繁の強さを知ると、今度はカルバリン砲という大砲で大坂城を直接砲撃します。この攻撃は実質的なダメージ以上に指導者たちを動揺させるのが目的であった可能性があります。
そしてリーダー格であった淀殿(よどどの)を見事に動揺させ、その上で休戦を持ちかけます。
そして休戦は成立することとなりました。
が……
もちろんこの豊臣が残っている限り完全なる徳川の世とはなりません。完全に息の根を止めることが目的。つまり見せかけの休戦でありました。
休戦の条件として大坂城(当時は大阪城ではなく大「坂」城)の堀は埋め立てられ、真田丸も取り壊され、その上で難癖をつけてまたも大軍勢で攻めかかって来ることとなります……
大坂夏の陣
もはや大坂城の防衛設備としての機能は大幅にダウンさせられておりました。その上での徳川の大軍勢。
真田信繁ら豊臣方の将兵たちは圧倒的に不利な野戦へと持ち込まれてしまいます。
が!
大坂五人衆の一人・毛利勝永が率いる部隊が大暴れ!その隙に真田信繁率いる部隊が、敵総大将・徳川家康の陣へと襲いかかります。
徳川家康をあと一歩のところまで追い詰めます。が、わずかに及ばず……
この戦いにて、信繁は戦場に散っていきました。そして、この戦いの終焉をもってして、長きにわたる戦国時代は幕を閉じることとなりました。
さて、いかがだったでしょう。真田信繁さん、名将と呼ばれるにふさわしい武人ではないでしょうか。
ちなみに……
冒頭に書きました
“天下人・徳川家康から「日ノ本一ノ兵(ひのもといちのつわもの)」、つまり、日本で一番強い武士と呼ばれたとされる戦国武将”
これは、事実として確認されてはおりません😆
別の方が書いたことが、いつの間にか徳川家康さんが言ったこととして伝わったようです。
そして、散々彼を持ち上げることを書いておいてなんですが、こんな視点も忘れてはならないと思っております。
江戸時代は200年以上という長い間続きました。その江戸時代をつくった徳川家康は、神君・家康公として神格化されました。
その、家康様様様様を追い詰めた人物が弱い人だったらどうなるでしょう?
そんな弱い人に追い詰められたの?じゃぁ家康様っていうか、家康さん?
いえやっさん?
やっさん?
やっちゃんだね😝
という具合に威厳が損なわれてしまうのではないでしょうか。そうなると当然、支配者側としては都合が悪い。
そんなこともあって、神君・家康公すらも追い詰めた人物はさすがだ!強い!!
というヨイショ的な空気もゼロではなかったように思えるのです。
そういったことも加味しながら、歴史を見てみると、少し違った見え方になるかも知れませんね。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
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103回ぐらい引用リスタックしてくれると嬉しいです🥹













ジャミ、こんばんは。
ついに始まりましたね。
このシリーズ楽し過ぎます😁
今ちょうど真田丸を見ているところです